自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【1432冊目】ニッコロ・マキァヴェッリ『ディスコルシ 「ローマ史」論』

ディスコルシ ローマ史論 (ちくま学芸文庫)

ディスコルシ ローマ史論 (ちくま学芸文庫)

マキァヴェッリは、ずいぶん前に『君主論』を読んだことがあるくらい。「マキャベリズム」なんて言葉があるくらい「目的のためには手段を選ばず」的なイメージが強かったのだが、『君主論』はむしろ非常にまっとうで常識的、現実的な考え方ばかりが並んでおり、いささか拍子抜けしたのを覚えている。

もっともこれは、マキャベリズムという言葉自体がマキァヴェッリの思想から離れてしまっていることにも原因がある。マキァヴェッリが手段を選ばなくていいと言ったのは、国家の存続という大義がかかっている場合に限った話であった。どんな時でもやりたい放題やってよいということではないのだ。本書にもこんな記述がある。

「どのような辱めを受けようと、あるいは栄光をその身に浴びようと、どのような手だてを使ってでも、祖国は護持されなければならない…(略)…ひたすらに祖国の存否を賭して事を決する場合、それが正当であろうと、道に外れていようと、思いやりに溢れていようと、冷酷無残であろうと、また称賛に値しようと、破廉恥なことであろうと、一切そんなことを考慮に入れる必要はないからだ。そんなことよりも、あらゆる思惑を捨て去って、祖国の運命を救い、その自由を維持しうる手だてを徹底して追求しなければならない」(p.638〜639)

実際、本書にせよ『君主論』にせよ、国家の維持と発展をもっとも重視するというマキァヴェッリ姿勢が貫徹されている。君主制か共和制か、といった体制選択も、その国家にとってどちらが良いかで決まってくる。押しつけではダメなのだ。どこかのグローバリズムを標榜する国とは大違いである。

「偉大なる平等がはっきりと打ち立てられているか、さもなければ、これまでに存在していたことのある場所柄を選んで共和国を建設すべきだ。一方、これとは反対に、君主制を樹立するには、不平等がはっきりと原則となっている社会を選ぶべきだ」(p.245)

さて、一般的には、本書は「『君主論』と対比しつつ共和制について論じた本」といわれることが多い。しかし、実際には君主論について、あるいは両者の比較についても触れられており、そこでは必ずしも共和制の利点が強調されているわけでもない(もっとも、どちらかといえば共和制びいきと感じられるようなフレーズのほうが多いかもしれない)。

いずれにせよ、やはり問題は「国家」なのである。そして、共和制を採用する国家が存続するための「あるべき姿」としての共和制を描こうとしたのが本書(の一部)なのだ。そして、その時に常にマキァヴェッリが参照したのが、サブタイトルにもある「ローマ史」、それもローマ共和国の歴史であった。

実際、本書の記述は、ほとんどがローマの歴史に始まり、当時と現代(といってもルネサンス期のヨーロッパ)を比較することによって成り立っている。とはいえ、マキァヴェッリはローマを単純に理想化しているわけではない。当時の優れた業績には学び、失敗は失敗として評価し、そこから教訓を引き出している。その扱い方は実に丹念で丁寧だ。

本書によれば、ローマ共和国には、ルネサンス期のフィレンツェヴェネツィアが学ぶべき教訓が詰まっている。当然、現代日本にもそのことはあてはまる。塩野七生が『ローマ人の物語』を書いたのも、おそらくあの時代がもっている歴史の豊饒さ、ありとあらゆる教訓がそこから引き出せるローマという国家・時代の真価を知っていたからではなかろうか。

そういえば塩野七生は、ローマ史だけではなく中世〜ルネサンス期のイタリアもよく取り上げる。両者にはどこか重なり合う部分、似通った部分があるのかもしれない。だからこそマキァヴェッリもまた、ローマ史に学ぶことで「現代」の政治と社会を見通すことができたのだろう。

さて、全体の流れとは別に、本書は現代にも通じる箴言で満ちた一冊でもある。目次をざっと眺めただけでも

「新しい国家の設立、または旧い制度の徹底的な改革は、一人の人間が単独でなすべきことである」

「自由な国家において現制度を改革しようとする者は、少なくとも旧制度の外見だけは残しておくべきである」

「共和国、君主のいずれの場合を問わず、必要に迫られてやむをえずとる行動でも、自分の意志で行っているふりをしなければならない」

のような名文句にぶつかる。

「白痴を装うことが時には最も賢明であるかもしれない」
「いつも幸運に恵まれだければ時代とともに自分を変えなければならない」

こんなのも、まるで自己啓発書に出てきそうな文句ではないか。

本文中でも、ハッとさせられるフレーズが多い。今の日本に必要な「苦い薬」もまた、本書にはたっぷり仕込まれている。以下はそのほんの一部。引用ばっかりでスミマセン。でも、これでもだいぶ絞り込んだんですよ。

「すべてこの世の出来事は、一つの具合の悪いことを除くと、必ずといってよいほど、別の都合の悪いことが生じてくる」(p.53)

「他人に支配されることに慣れてきた人びとは、どのようにして自分たちの力で防いだり攻めたりしたらよいかも知らず、それを知っている君主もいなければ、通暁している人もいないので、たちまち隷属状態に陥って、少し前に背負わされていた重荷よりも、はるかに苛烈な圧政にさらされがちなものである」(p.99〜100)

「国家の旧来の制度が、もう何の機能も果たせなくなったことが読みとれるなら、すぐにも全面的に改めるか、それともいま一つの方法としては、それぞれの不備が露呈する機先を制して、ぼつぼつ改めていかなければならない」(p.114)

「弱体な国家が持つ一番悪い傾向は、決断力に乏しいということだ。それらの国家が打ち出す政策は全部、追い込まれてやむをえず採用したものである」(p.179)

「よくあることだが、かつて何かの事件とか人間に騙されたために、人民がもう何も信用しないような傾向になってしまうと、その国家の破滅は避けうべくもないのである」(p.230)

「奴隷として甘んじて生きる人を解放しようとすることは、自由を渇仰する人を奴隷の境遇に落とすのと同じくらいに、困難で危険な仕事・・・である」(p.518)

「共和国では国内に色々な才能を具えた人間が控えているので、時局がどのように推移しようと、これにより巧みに対応していくことができる」(p.521)

「まれに見る大人物は、国家が太平を楽しんでいる限り、とかく粗末に扱われがちなものであったし、将来にわたって常に無視されよう。なぜなら、彼の力量によれば当然入る名声を、太平の世に生きる民衆は、嫉妬のあまり奪い取ってしまうからだ。しかもこうした民衆と同程度のものだけでなく、それ以上の力量を具えた者までも、出る杭を打ってしまう」(p.548〜549)

歴史に学ぶ、という言葉の意味が、骨身にしみて分かる一冊。特に政治家については、マキァヴェッリは必修。権力ということの意味もよくわかる。

新訳 君主論 (中公文庫BIBLIO) ローマ人の物語 (1) ― ローマは一日にして成らず(上) (新潮文庫)