自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【1416冊目】イサク・ディネセン『アフリカの日々』/エイモス・チュツオーラ『やし酒飲み』

アフリカの日々/やし酒飲み (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 1-8)

アフリカの日々/やし酒飲み (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 1-8)

模様替えしてみました。ホントはもっとガラッと変えようかと思ってたんだが、とりあえずは今のまま行きます。

さて、本書は「池澤夏樹個人編集 世界文学全集」の一冊。テーマは「アフリカ」。

「アフリカの日々」がとにかくすばらしい。ページを開いた瞬間に、アフリカの乾いた風が吹きつけてくるような文章に圧倒された。とてつもなく雄大で、茫漠として取りとめのない「アフリカ」が、身体感覚で伝わってくる。

著者自身のアフリカ滞在の日々を綴ったらしいが、単なるルポルタージュというには、著者自身の目線がアフリカの「内側」に食い込みすぎている。エッセイというには骨があるし、小説というには現実に即しすぎている。そんな分類を気にするより、ひたすら著者の描く「アフリカ」に埋没するのが正解だ。

デンマーク人の女性である著者は、ヨーロッパ人としての見方を抜きがたく抱えたままアフリカで農場を営んでいる。その「見方」は、私のモノの見方とかなり似通っている。おそらくそれは文明社会の常識、近代合理主義の思考なのだろう。

ところが読むうちに、そんな著者の(そして私の)「内なる常識」が、キクユ族やマサイ族たちによって次々に揺さぶられ、崩されていく。時間や空間の感覚から人の生死まで、「アフリカ基準」の思考がわれわれを圧倒する。それがなんとも小気味よく、心地よい。

例えば、一人の人間が殺されたり、怪我を負わされたとする。「文明国」の司法制度の発想は、加害者の故意や過失、あるいはさまざまな事情を斟酌し、死刑や禁固、罰金などの「罰」を決めていく。ところが彼らの発想は、まず「死んだ」「怪我をした」という結果から入るのだ。そして、その結果に対する「償い」を求めていく。そこに至る事情はいっさい斟酌されない。ただ、被った損失に見合う償いで、その損失を埋め合わせることだけが重要なのだ。

また、『ヴェニスの商人』でシャイロックが肉1ポンドを切り取るという契約をしつつ、それが履行できなかったという筋書きが、彼らには理解できない。以下はディネセンとキクユ族のファラの会話だ。

「でも、シャイロックにはどうしようもなかったのではない? 血は一滴も流してはならないというのだもの」と私はたずねた。
「メンサヒブ、その人は真っ赤に焼いたナイフを使えばよかったのです。そうすれば全然出血しません」
「だけど、シャイロックはきっかり1ポンド、それ以上でも、それ以下でもなく、切りとらなければならなかったのよ」
ユダヤ人でなければ、そんなことでおびえはしません。小さい秤を持っていって、正確に1ポンドになるまで、肉をすこしずつ切りとっては計ってゆけばよかったのです」……「その人は、ごくすこしずつ切りとればよかったのです。1ポンドの肉を切りとり終るまでに、長いこと相手の男を苦しませてやることができたはずです」(p.274〜275)

うむ。どう考えてもファラの言うことが正しい。

もう一篇の「やし酒飲み」は、アフリカ人作家チュツオーラの作品。ディネセンの「アフリカの日々」が(かなり内側に食い込んでいるとはいえ)外から見たアフリカであるのに対して、コチラは完全に「内側から見た」アフリカの精神が描かれている。

「アフリカの日々」は読んで陶然となったが、「やし酒飲み」は一読、ぶっとんだ。南米のマジックリアリズムも素晴らしいが、この迫力には到底かなわない。荒唐無稽をはるかに超えている。

要するに「日本昔ばなし」の世界なのだ。現実と非現実が、人間と神々がボーダレスに混ざり合う。神話の世界がそのまま小説になったというべきか。いや、小説というより、解説でも書かれているとおり、これは口承文学、「語り」と「騙り」の魔術の世界であろう。そして、こうした「語り=騙り」こそが、そもそも物語の原型であったはずなのだ。

これはもう、読んでもらうしかない。物語の先祖返りであり、炉辺のホラ話の文学化であり、それがそのまま現代文学の最先端にまで突き抜けている。死んだ「やし酒造りの名人」を探しに旅に出るというシンプルな筋書き。「わたし」は人であり、同時に神様でもあり、ジュジュという魔法じみた力を使う。当たり前のように出てくるのは、跳びはねる「頭ガイ骨」であり、精霊であり、死者であり、得体の知れぬ怪物どもである。う〜ん。スゴイ。とてつもない。

世界観が壊れる快感。その奥にある生と死の手触り。「アフリカ」を記憶の奥底に刻み込む傑作2編。