自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【2481冊目】一柳廣孝・久米依子『ライトノベル研究序説』

 

ライトノベル研究序説

ライトノベル研究序説

 

 

未踏の原野が広がっている。ライトノベルという名の原野である。

私が中学生~高校生の頃は、そもそもライトノベルという名前自体がなかった。だが、ゲームブックを経てTRPGにハマり、『ロードス島戦記』は誌上リプレイをリアルタイムで読むところから入ったが、『スレイヤーズ』はイラストのノリについていけず読まなかった。思えばそのあたりで、ライトノベルに続く道から外れてしまったのだろう。

その後ウン十年というもの、横目でチラチラ眺めながらも、近寄りがたい雰囲気に押されてライトノベルに手を伸ばす機会がなかった。だが、ふとしたきっかけ(同じ職場の後輩がなかなかの読書家で、ラノベもけっこう読んでいた、という程度のきっかけだが)で、少し読んでみようかな、という気になった。とはいえ、どこから手を付けてよいものか皆目わからない。『涼宮ハルヒ』『ブギーポップ』くらいは聞いたことがあっても、それがどういう位置づけのものなのか見当がつかない。そこで全体のマッピングをしたくて読んだのが本書である。

「文化」「歴史」「視点」「読む」の4章立てで、多面的、多重的にライトノベルの過去・現在・未来に迫る本。気になる本はいくつかあったものの、それよりライトノベルになぜこれほど多くの人がのめり込むのかという、肝心なところがよくつかめず、それがかえって好奇心をそそった。共著だが、どの著者の文章も熱量がハンパなく、大の大人をこれほど駆り立て、熱い気持ちにさせる理由も気になる。

そういうわけで、とりあえずは少なくとも、食わず嫌いをやめて手に取ってみよう、と思えるだけの本であった。問題はライトノベルを読んだとして、私があの「イラスト」と「会話」に耐えられるか、なのだが、まあ、やってみなければわからない。案外どっぷりハマって抜け出せなくなるかも?

 

【2480冊目】今西錦司『生物の世界』

 

生物の世界 (講談社文庫)

生物の世界 (講談社文庫)

 

 

1941年に「遺書のつもりで」書いたという、今西錦司最初の生物学系の本。本当に大事なこと、本当に必要なことだけを絞り込み、急き立てるように論を展開しているのは、戦争で命を落とすかもしれないという差し迫った危機感と、それゆえ自分が生き、思索した証を残したいという切実な思いからなのだろう。

今西錦司といえば、の「棲み分け理論」や、「同位社会」「同位複合社会」の考え方も登場するが、なんといっても、その基盤となっている今西ならではの世界観が素晴らしい。それを拙いながら要約してみると、われわれの世界とは空間的であり、同時に時間的なものである。それはすなわち、その世界を構成するいろいろなものの存在様式が、構造的であって機能的である、ということだ。そして、生物が身体的であって生命的であるということも、この流れの中に位置付けられる。

空間的ー構造的ー身体的

時間的ー機能的ー生命的

唐突かもしれないが、本書を読んでいて感じたのは、著者の感覚がきわめて仏教的な、言い換えれば相互即融的で曼荼羅的なものであるということだった。そこが今西独自の生命観につながり、「棲み分け理論」や、本書の後半で展開されるようにダーウィン進化論における自然淘汰論への強い反発に至っているのだろう。のちの生態学、自然学へと展開していく、今西理論の出発点がここにある。

【2479冊目】小此木啓吾『対象喪失』

 

対象喪失―悲しむということ (中公新書 (557))

対象喪失―悲しむということ (中公新書 (557))

 

 

死別、離婚、失恋。大切な人との別れは人生につきものだ。そんな時、人はどのようにして悲しみを乗り越えるのかについて、フロイトの理論をベースに書かれた本書は、1979年の刊行ながら、今も読み継がれる名著である。むしろ震災などの影響もあって、本書の重要性はかえって高まっているのではないか。

著者によれば、自分にとって大切な対象を失った場合、2つの心的反応が起こるという。1つは急性の情緒反応(emotional crisis)、もう1つは持続的な悲哀(mourning)だ。情緒反応は感情的な興奮やパニックが中心で、時に感情の麻痺や人格の分裂に至ることもあるが、通常は短期間で回復する。一方の持続的な悲哀は、もっと内面的な心の中の営みであり、具体的には「失った対象に対する思慕の情、くやみ、うらみ、自責、仇討ち心理など、さまざまな愛と憎しみのアンビバレンス」(p.45より)が挙げられる。

J・ボールビーは、母親を失った乳幼児の反応から、この悲哀反応のプロセスを定式化した。それによると、第一段階は「抗議と不安」の段階で、「母親を見失った現実に抗議し、その運命に逆らい、必死になって失った対象を取り戻そうと」する。第二段階は「絶望と悲嘆」とされ、ここでは「母親がいなくなった現実がもはやどうにもならないことを悟り、絶望し、深刻な悲嘆が襲う」。そしてこの段階を潜り抜けると「離脱」に至る。ここでは「母親に興味を失い、母親を忘却してしまったかのような態度が見られる」。

もちろん失った対象が何か、関係性やその人の性格によってもプロセスや要する時間は異なるが、一般にこの「持続的な悲哀」は、半年から一年くらい続くとされる。大事なのは、知識として知っていたからといってこの期間が短縮できるものではない、ということ。むしろ、しっかりと時間をかけて対象喪失に向き合い、辛いことではあるが、不安や現実の否認、深い絶望や悲嘆に心を浸すことこそが大切なのである。ちなみにお気づきの方もおられるだろうが、このプロセスは、キューブラー・ロスが示した、死の受容に向けたプロセスとよく似ている。それも当然であって、死とは、自分自身という最大の対象からの喪失なのである。

さて、半年から一年といった期間が必要だと言われても、この忙しい現代社会で、そんなに長い間、失った相手を悲しがってはいられない。家族の死であればともかく、離婚や失恋などであれば、数週間も経てば、みんなに「いつまで引きずっているんだ」「早く立ち直れ」などと言われてしまうのではないか。そこで起きるのが、こうした不安や悲嘆を抑圧し、いわば強引に心の中に押しとどめてしまうという事態である。ところが、これは合理的なようでいて、実はたいへん危険で、かえって回り道になってしまうやり方なのだ。本書ではそうした「不完全な悲哀プロセス」から生じる「こじれ」の症状がたくさん紹介されている。うつ反応、極端な潔癖症、人格の分裂、さらにはストーカー殺人のようなものも、こうした点から説明できてしまうだろう。著者は次のように書いている。

「心の健康とは、憎しみ、悲しみ、不安、罪意識のない、幸せと満足がいっぱいの快適なだけの世界のことではない。むしろ悲しみを悲しみ、怒りを怒り、恐れを恐れとして感じることのできる世界のことである」(p.159)

では、どうすれば現代人が適切な「悲哀の仕事」を経て、回復することができるのか。実は、古来、人はさまざまなものや人の助けを得て、対象喪失の悲哀を乗り越えてきた。特にその役割を果たしてきたのが宗教だ。また、旅に出るという人や、文学や音楽の助けを借りるという人もいるだろう。そして現代では、さまざまな援助者の助けを借りて、多くの人が悲哀のプロセスを乗り越えている。中でも著者が重要視するのは「転移」と「投影同一視」である(このあたりは精神分析医としての著者らしさが出ている)。

「転移」とはもともと精神分析の用語である。例えば父の死であれば、亡くなった父と自分の関係を援助者と自分の関係に移し替え、同一視することで、失った相手との関わりを再現させ、悲哀を乗り越える一助としていくといったプロセスが生じる。医師や看護師、ソーシャルワーカーなどの立場にある人は、意図せずしてこうした役割を担うことになりやすいため、「悲哀の仕事」について一層よく知っておく必要がある。

「投影同一視」の場合は、自分と同じような対象喪失を経験している人物を見つけ、その人の悲哀に自分を重ね合わせ、相手の悲哀の仕事を助けることで自分自身が悲哀を乗り越える。葬式や法事で近親者が互いに語り合い、慰め合う行為は、おそらくこうした作用を担っているのだろう。

いずれにせよ、冒頭にも書いたように、すべての人間は、対象喪失の悲しみからは絶対に逃れられない。そこでいかに悲嘆を受け止められるかに、私たちの人生はかかっているといって過言ではない。「その日」を迎えた人自身がこんな本を読む余裕はないだろうが、周囲の人、とりわけ支援にあたる専門職の人にとって、本書はおススメできる一冊だ。

【2478冊目】川上未映子『ヘヴン』

 

 

ヘヴン (講談社文庫)

ヘヴン (講談社文庫)

 

 

 

苛め(著者は「いじめ」でも「イジメ」でもなく「苛め」と書く)を扱った小説ということは知っていた。たしかに、かなりひどい苛めの描写が頻繁に登場する。特に、実際に苛めを受けていた経験のある人にとっては、かなり読むのがしんどいかもしれない(決して無理しないで!)。

とはいえ、本書はたんなる「苛めはいけません」というだけの本ではない。苛める側の無神経な残酷さをこれでもかと描くことで、「僕」や同じように苛められているコジマのもつ「弱さの強さ」あるいは「弱さの美しさ」のようなものが、不思議と浮かび上がってくる。

苛める側の百瀬が語る徹底的な反・善悪論もまた、異様な説得力があって忘れがたい。ただ、百瀬や苛めグループのリーダーである二ノ宮らは、「僕」がラストで感じたような世界の美しさを、生涯感じることはないように思う。彼らのエゴイズムに満ちた強さは、そうした美しさを感じる精神と引き換えに得られるものではなかろうか。たぶん連中は、それまでの人生のどこかで、悪魔とそんな取引をしてきたのである。

【2477冊目】クリス・クラッチャー『ホエール・トーク』

 

ホエール・トーク

ホエール・トーク

 

 

主人公のT・Jは黒人と白人と日系の混血で、IQ高くスポーツ万能、ドラック中毒の母親から引き離されて養父母のもとで育てられている高校生。通っているカッター高校は何事もスポーツ優先、体育会が学校で一番という日大みたいな学校だ。そこでひょんなことから水泳チームを作ることになったT・J。集まってきたのは、脳に障害を負ったいじめられっ子のクリス、プールの水位を上げることができるほどの巨漢サイモン、存在感が薄くほとんどしゃべらないジャッキー、小難しい言葉ばかりを使う秀才ダン、ボディビルダーの音楽家テイ=ロイ、そして毒舌家の「義足の精神異常者」アンディ・モット。学校内のアウトサイダーの見本市みたいな面々だった。

この「寄せ集め水泳チーム」の奮闘と友情が縦軸だとすれば、横軸は学内のスポーツ・エリートだが人間的には最低のマイク・バーバーに、その兄貴分で学校OBのリッチ・マーシャルという二大「ジャイアン」。といっても、T・Jはこの2人とも対等以上にやり合うので、イメージとしては『バック・トゥ・ザ・フューチャー』のマーティとビフのやり取りに近いかな。さらに欠かせないのは、T・Jの養父母の存在だ。過去のトラウマを引きずり、見た目は怖いが実は誰よりやさしい父親に、児童虐待事件を専門とする辣腕の弁護士である母親。間違っていると思えば学校にもどんどん乗り込むが、一方ではリッチから虐待を受けた妻や子を家に預かり、押しかけるリッチからも守り通す。この養父母に加え、水泳チームを率いるシメット先生や、スポーツクラブに棲みつき、結果的にチームの手伝いをするイッコーら魅力的な大人の存在が、この小説をピリリと引き締めている。

ああ、こんな書き方で、この作品の魅力が伝わるとは思えない。とにかく読んでほしい、としか言えないのは歯がゆいことこの上ないが、本書の訳者もこう言っているのだから、いいだろう。「相手の好みなどきくまでもなく、とにかく読んでくれと突きつけたくなる本というのもごくまれにある」(p.282)。そう、本書はまさにそういう本なのだ。

いじめ、DV、児童虐待、トラウマなどの重いテーマを呑み込みながら、それでもリズミカルに物語が転がっていくのは、やはり主人公T・Jの存在が大きい。誰より優れた才能を持ちながら、学校のゆがんだ「体育会」至上主義にはあくまで抵抗し、いじめられているクリスを助け、暴力を振るうバーバーやリッチとは毅然として戦う。一方、そのバーバーやリッチも、不愉快極まりないキャラクターながら、単なる「悪」としては描いていない。似たような暴力的な親に育てられてきたという過去や、スポーツの優秀な生徒であれば不祥事があっても握りつぶそうとする学校側の姿勢が、彼らを「スポーツ・モンスター」にしてしまったことが、しっかりと書かれているのだ。善悪を単純に割り切ることなく、それでも正しいと信じる道を貫くことの大切さ、そして何より、罪を「赦す」ことの大切さについて真摯に描いた、珠玉の児童文学だ。