自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【2332冊目】沢木耕太郎『オリンピア ナチスの森で』

 

オリンピア ナチスの森で (集英社文庫)

オリンピア ナチスの森で (集英社文庫)

 

 

インスタグラムからの転載なのだが、とにかく、この本にはびっくりした。なにしろ、沢木耕太郎が、晩年のレニ・リーフェンシュタールにインタビューしているのである。

しかし、3時間に及んだと言うインタビューは、著者が当てようとしているスポットライトのひとつにすぎない。著者がこの本で描き出そうとしているのは、1936年のベルリン・オリンピック。「ハイル・ヒトラー」の熱狂の中行われ、ナチス政権のプロパガンダともいわれたこのオリンピックを、著者は出場した日本人選手の目線を交えつつ描き出す。

当時の日本人選手の置かれていた環境の劣悪さは相当なものだった。不十分な練習環境。コーチもいないため自己流で練習するしかない。会社は休めないから夜だけ練習した選手もいた。栄養管理も体調管理も自己責任だ。

にもかかわらず、周囲はメダルを期待し、選手たちも「国を背負って」出場するプレッシャーに押しつぶされそうになる。時代が時代である。その重さたるや、戦後のそれをはるかに上回っただろう。

著者は何人ものそうした選手たちの姿を描きつつ、一方で当時のベルリンの雰囲気の異様さ、オリンピックの独特な空気にも触れ、その全体を立体的に描き出していく。たしかにベルリン・オリンピックは政治利用された。日本人選手は重圧に苦しんだ。だが、それでも「「ベルリン大会」は書くに値する「何か」を確実に持っていた」と、著者は最後の最後に書いている。それは2004年のアテネオリンピックを最後に失われたものである、とも。「たとえ東京で二度目の大会が開かれたとしても、一九六四年のオリンピック以上のものにはなりえないでしょう」

それでも、来年は東京にオリンピックがやってくる。果たしてそれは、何のための大会なのだろうか。そこに「意味」は、あるいは著者のいう「何か」は宿るのだろうか。それがないとしたら、私たちはいったい何のために、オリンピックをやっているのだろうか?

 

【2331冊目】工藤美代子『もしもノンフィクション作家がお化けに出会ったら』

 

 

 

誰かが亡くなる前に集まってくる人々。正月の夜中に路上でまりをつく子ども。誰も触っていないのに回り始める換気扇。父の亡くなった日に見た赤い人魂。人を呪い殺す力を持つ黒魔術。親の月命日に一度だけリンと鳴る電話……。

見える人には見え、聞こえる人には聞こえるらしい。でも、誰もそんなことを、大真面目に取り上げてはこなかった。実際に「見聞き」できる人も、おかしくなったんじゃないかと思われるのが嫌で、人にはあまり言ってこなかった。でも、説明できないからといって、非科学的に見えるからといって、それが「ない」ことにはならない。

「かつて『怪談』を小泉八雲が書いた時代は、自分が遭遇した奇怪な体験を人々は平気で口にした。それを笑う人も馬鹿にする人もいなかった。
 ところが現代では、そうした話をすると、いかにも無学で無教養な人間のように見られる。だからみんな話さないようになったが、実は私が考えているより、はるかに多くの人が、この世にあって、あの世の人を見かけたり、喋ったり、写真に撮ったりしているのではないだろうか」(p.206)

このように書く著者はむろん「見える人」である。だが、著者はそのことを誇ることも、あるいは卑下することもなく、淡々と「見えたもの」「聞こえたもの」を綴っていく。ここに書かれているのは、科学でも非科学でもない、オカルトでもなければ合理主義でもない、しいて言えば「ノンフィクション」そのものだ。それをどう受け取るかは読者次第、でも私はそういう体験をしたのですよ、という、静かで力強いメッセージが、本書の底には波打っている。

そして、大げさな主張がないぶん、かえって「見えないもう一つの世界」がこの世には存在することが、本書を読むと確信できる。それは浅薄なオカルティズムではない。世界そのものとの向き合い方の根本的な変更なのである。

 

【2330冊目】マーク・トウェイン『人間とは何か』

 

人間とは何か (岩波文庫)

人間とは何か (岩波文庫)

 

 

昨日に引き続き、インスタグラムからの転載。

人間は自己中心的な機械である。利他心も道徳心も、結局は自分の欲望に帰着する。その行動は本能と習慣に基づくもので、自由意志などというものは存在しない。

当時は大変な問題作だったという。原稿は1903年には書かれていたが、妻や娘が内容にショックを受けたため、刊行は妻の死後となる1906年。それも250部だけを私家版として配っただけで、一般に刊行されたのは著者の死後、1917年であったという。

確かに、二十世紀初頭という時代にあってこんな内容を世に問うのは、いささか早すぎたのかもしれない。もっとも、フロイトが無意識の概念を提唱したのはほぼ同時代だし、ダーウィンの『種の起源』は半世紀前の1859年なのだから、一般大衆には十分刺激的ではあるが、それほど独創的で先駆的、とまでは言えないような気はする。

むしろここで指摘されていることは、現代の心理学や行動経済学に近いかもしれない。いずれにせよ、人間に自由意志があるかどうかという問題は、トウェイン以前から現代までずっと問われ続けている、古くて新しいテーマなのである。

【2329冊目】アガサ・クリスティー他『厭な物語』

 

厭な物語 (文春文庫)

厭な物語 (文春文庫)

 

 インスタグラムからの転載。ちなみに今気づいたが、「厭」という文字って、ホントに「イヤ」な感じがする。表意文字のパワーだ。

 

さて、今でこそ「イヤミス」なんて言葉もあるが、かつてはこんな小説、異色中の異色だった。救いのない物語。悲惨なラスト。絶望に満ちた読後感。そんなものがもてはやされるなんて、いったい誰が想像しただろう。

だから本書に収録された作品は、有名な作家のものであっても、ほとんどが知られていないものばかり(例外はシャーリイ・ジャクスンの「くじ」とフラナリー・オコナーの「善人はそういない」くらいだろうか)。このアンソロジーのセレクションを誰が担ったのか知らないが、さぞ大変だったことと思う。

それだけに驚かされるのは、ひとつとして「凡作」「駄作」が選ばれていないこと。むしろ、今まで知られていないのが不思議なほど、小説としてよくできている作品ばかりなのだ。しかもラインナップがものすごい。アガサ・クリスティとウラジーミル・ソローキンとフランツ・カフカが同じアンソロジーに入っているなんて、ほかの企画では到底ありえない。

そして、解説の後ろ、最後の最後にフレドリック・ブラウンの「うしろをみるな」(これも知る人ぞ知る作品)を入れるセンスに脱帽。過激一辺倒の最近のイヤミスとは一味違う、丹念で緻密な上質の作品でこそ味わえる「真の厭さ」を、じっくり味わっていただきたい。

【2328冊目】デール・ブレデセン『アルツハイマー病 真実と終焉』

 

アルツハイマー病 真実と終焉

アルツハイマー病 真実と終焉 "認知症1150万人"時代の革命的治療プログラム

 

 

アルツハイマー病はもはや「不治の病」ではない! と断言する著者。だが、そのためのハードルは、けっこう高い。う~ん、この手順(プロトコル)を全部こなせる人はいるんだろうか……と思っていたら、人によって必要なプロトコルは違うので、全部必要とは限らないという。ふう、よかった。

というか、私にとって衝撃的だったのは、そもそものアルツハイマー病の原因である。アルツハイマー病は、アミロイドという物質が脳のニューロンのつなぎ目に付着することで起こる。だが、こうしたアミロイドの産生自体がなぜ起きるかというと、実はこれは「脳の防御反応」なのだという。アミロイドは、「炎症」「脳の栄養不足」「有害物質」といった脅威から脳を守るためのものなのだ。

となると、アミロイドそのものをどうこうしようとする以前に、こうした脅威そのものを引き起こさないようにすることこそが、アルツハイマー病の根本的な治療法ということになる。ところがここでやっかいなのが、アルツハイマー病の要因はひとつではない、ということだ。その背後には、なんと36種類もの要因が絡み合っているというのである。

これを著者は「36カ所の穴が開いている屋根」に例える。従来の薬は、これらのうちせいぜい1つを塞ぐ程度の効果しかもたなかった。だから、ある程度の症状の抑制にはつながっても、根本的な改善には至らなかったのだ。著者の提唱する「リコード法」のプロトコルは、さまざまな生活習慣や食習慣の改善に服薬を組み合わせることで、包括的に穴を塞ごうとする。それも、すでに書いたように、その人にとっての要因を徹底的に検査し、それにあわせたオーダーメイドの組み合わせを提供するから、効果が高いのだ。本書では、すでに進行していた認知症状が改善したケース、辞めざるを得なかった仕事に復帰したケースなどが紹介されている。

こう書くと、これが本当ならなんとすばらしい福音か、と思うことだろう。ただ、本書に出てくる「治癒例」の人々がこなしているプロトコルを見ても、果たしてそう言えるだろうか。

例えば、遺伝的な要因で発症リスクの高いジュリーの場合。「朝食は採らず、オーガニックコーヒーを一杯」「ココナッツオイルでオイルプリング(うがい)、フッ素不使用の歯磨き粉で歯磨き」「化粧品や洗面道具はすべて安全性をチェック。日焼け止めとデオドラントはアルミニウム不使用。マニキュアの代わりにココナッツオイル」「荒れ模様の天気でも、毎日欠かさず50~60分のウォーキングかランニング」「一日の最初の食事は夕食から15~16時間空ける」「食事前には室温の水にレモンとショウガを入れて飲む」「昼食は平飼い卵2個、オーガニックで非でんぷん性の野菜(ブロッコリー、ほうれん草、ケール、発酵野菜)を山盛り、エキストラバージンオイルに海藻を加えヒマラヤ塩と季節の新鮮なハーブ、スパイス」……。

この調子でこの倍以上のリストが続くのだが、もういいだろう。これはジュリーのための特別メニューだとしても、一般に「朝食は夕食から12時間空ける」「グルテンと乳製品はなるべく避ける」「加工食品はNG。砂糖も避ける」「魚は必須ではない。大型魚は水銀汚染のリスクがあるため避ける」「肉は味付け程度に」といった具合で、まあ、要するに「そういう食事」が望ましい、ということなのである。

このへんで、私を含め、ついていけない人がたくさん出てくることだろう。まあ、個人的にはある程度いいとこどりでいいんじゃないかと思うのだが、ただし無視できないと思われるのは「以前は稀な病気だったアルツハイマー病の発症率が、最近大幅に上がっている」こと。そこに食事や運動などの現代的な生活習慣がまったく影響していないとすれば、そっちのほうが不自然というものだ。日本でも、認知症患者は2025年に700万人を突破すると言われている。本書の提言以外に選択の余地がないとすれば、国家ぐるみでオーガニック・ライフを送らなければならない時代が、近いうちに来るのかもしれない。