自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【本以外】映画『ギルティ』は前代未聞のアイディアを消化しきった秀作

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観た人がみんな「すごかった」というので観てきたら、やっぱりすごかった。

 

舞台は、警察の緊急指令室(日本で言えば「110番」を受ける部署)。わけあって第一線の警察官からここに異動してきたアスガーが受けた一本の緊急電話。声の主は女性で、どうやら誘拐されているらしいのだが・・・。

 

この間観た『サーチ』は画面だけだったが、本作は電話から聞こえてくる「声と音だけ」でほとんどが構成されている。カメラは緊急指令室から一歩も出ず、視覚的な情報はアスガーの表情や行動と、せいぜいパソコンの画面くらい。観客は、電話口から聞こえてくる「音」だけで、すべての展開を読み取らなければならない。

 

この設定がまず素晴らしい。最近は3DだのIMAXだのと、過剰表現で人の想像力を弱体化させるような技術ばかりがアピールされているが、あえてそこにこういう映画をぶつけてくるとは。しかもその設定がストーリー上最大限に活かされていて、ある瞬間に真相が見えた時の驚きはまさに「血が凍る」レベル。今まで(自分の中で)見えていたものは何だったの? と思えるくらいに、一瞬で世界が切り替わる。タイトルの「ギルティ」は「有罪」ということだが、その意味もしっかり織り込まれている。深い。

 

電話ゆえの「おぼつかなさ」「こわさ」がすごく伝わってきたのは、私自身、仕事では電話上でけっこういろいろなやり取りをしているためか。特に、現場で何か起きている時に、自分は動けず電話での対応しかできないときの歯がゆさは、実によくわかる。そういう時って、アスガーみたいに、かえって邪魔だと分かっていても、やたらに電話をかけたくなってしまうものなのだ。

 

ネタバレ厳禁タイプの映画なので、紹介はここまで。デンマーク映画なんてたぶん初めて観たのだが、じわじわ追い込んで鮮やかにひっくり返す脚本も、アスガー役(ほとんど唯一の「見える」主人公)も、声役のみのイーベンやミケルも素晴らしい。テレビでもいいけど、臨場感を感じたければ映画館での鑑賞をおススメします。

 

 

 

 

 

 

 

 

【2313冊目】深田耕一郎『福祉と贈与』

 

福祉と贈与―全身性障害者・新田勲と介護者たち

福祉と贈与―全身性障害者・新田勲と介護者たち

 

 

福祉というもの、介護というものの本質について、どっぷり考えさせられた。今まで当たり前だと思っていた概念が、まったく別のものに見えてきた。本書は「そういう本」である。ただし、結論が著者と同じになるとはかぎらない。

この本は、新田勲という「全身性障害者」とのかかわりがベースになっている。著者自ら新田氏の介護を行い、介護に携わる者の話を聞き、新田氏の「運動」の軌跡を辿る。それは府中療育センターでの「闘争」に始まり、生活介護の他人介護料や東京都の重度脳性麻痺者介護人派遣事業の実現や拡大と、障害者福祉の先端を切り開く人生であった。

新田の人生や思考に触れる中で、著者が到達したのが「福祉とは贈与である」というものだ。贈与? それはおかしい、と思われたとしたら、おそらく現在の福祉制度のことをある程度知っている方だろう。介護保険にせよ障害者総合支援法にせよ、現在の福祉サービスは契約に基づいて提供されるもので、そのあり方を言い表すなら「贈与」ではなく「交換」ではないのか、と。

この「交換原理」に基づく福祉のあり方を主張したのが、本書でも紹介されている自立生活センター系の人々だった。彼らは介護をいわば商品化し、被介護者を消費者として位置づけた。それは、介護を「仕事として割り切る」ことによって、サービスの安定化と介護者の確保を可能にするものだった。

一方の「贈与」も、もちろん一方通行のものではない。というか、一方通行の贈与(いわゆる「ボランティア」や、親の子に対する介護などがあたるだろうか)は、被介護者に対する支配につながるため、望ましくないと考えられた。新田氏らの運動から著者が見出したのは、「相互贈与」であった。

この「相互贈与」が、実はなんとも分かりにくい。著者はこれを「移転の等価性を度外視した贈与を相互的におこないあう」(p.623)というが、そもそもそんなことが成り立つものなのか。むしろ交換に伴うドライで匿名的な介護を嫌い、ウェットで属人的なものとして介護を捉えることが主眼であり、そのために「贈与」という枠組を考えたとみるべきなのかもしれない。

実際、新田氏らが主張する「専従介護」は、人と人とのつながりが前提になければ成り立つことが難しい。これは介護者が基本的に(数名のローテーションとしてだが)固定化し、同じメンバーが介護を行うというものだ。例えば、新田氏は「足文字」という独自のコミュニケーション方法をもつが、これは新田氏の介護に熟練した者でないと読み取ることが難しく、結果として意思疎通が図れず、介護者として成り立たない。新田氏はこの足文字を官僚の目の前でやってみせ、「読めない」ことを認めさせることで、専従介護の必要性を説いたという。

実際、介護は単なる「商品労働」として割り切るには、いろいろ余剰物を抱え込んだ労働形態である。それは被介護者の自宅に上がり込み、食事から入浴、排泄の介助まで、その人自身のもっとも私的な部分に触れる行為なのだ。だが、だからといって介護者に高邁な理想と自己犠牲を求め続けたら、介護は制度として成り立たなくなってしまう。だから先ほどあげた自立生活センター系の人々は、あえて交換原理を全面に打ち出し、介護の「ウェットな」部分はあえて目をつぶってきたのであった。

新田氏や著者は、そうした部分をむしろ徹底的に直視し、そこから介護というものを組み立てていった。だから福祉は「贈与」であり、介護労働は「贈与労働」なのである。思うにこれは、福祉は贈与であるという「結論」が大事なのではない。サービスと化した「介護」からこぼれ落ちた本質を、矛盾から目をそらさず、丁寧にすくい上げる営みが重要なのである。 

【2312冊目】若松英輔『生きる哲学』

 

生きる哲学 (文春新書)

生きる哲学 (文春新書)

 

 

哲学、という言葉からはなかなか連想しないような人々が並ぶ。作家の須賀敦子原民喜、染色家の志村ふくみ、料理研究家の辰巳芳子。中でも美智子皇后が登場するのが意外でおもしろい。いわゆる「哲学者」の枠にあてはまりそうなのは、孔子フランクル井筒俊彦くらいだろうか。

だが、読んでいると、これこそ哲学の本来だ、と思えてくる。哲学がただの机上の学問としてではなく、生きることそのものと一体化している。いや、もともと哲学とは、人がいかに生きるべきかの指針であり、生きるとはどういうことなのかについて考えるものだったはずだ。その意味で本書は、意外な人選に見えて、哲学の「おおもと」に立ち戻る一冊といえるのかもしれない。

本書は序章で、池田晶子の「分かることは、変わること」であるとする一文を引いている。ある事柄、ある言葉がほんとうに「分かる」とは、自分自身がそれによって「変わる」ほどのことだという。ほんとうに「分かる」とは、それほどに大変なことなのだ。

だから私自身も、本書の内容が「分かった」とは、今はまだ言えないかもしれない。だが、綴られている言葉の中で「分かるべき」「分かりたい」と思える部分は多くあった。その一部を、ここに記録しておく。今はまだそこまでの境地に至らなくても、いずれ「分かる」ことによって「変わる」ための道標として。ちなみに引用はすべて著者自身の文章からのもの。

須賀敦子
 「生きることについて知ることが大事なのではない。生きること『を』、知らねばならない。自分の生にだけは、いつも直接ふれていなくてはならない。それが須賀敦子の信条だった」(p.31)

 

舟越保武
 「ダミアンが病を身に受けたとき、自分が患者たちに寄り添っていたのではなく、むしろ、彼らがいつも自分の傍らにいてくれたことに気がついたように、舟越もまた、半身の自由を失ったとき、それまでに感じることができなかった実感をもって、イエスの臨在を感じたのではなかったか」(p.54)

 

原民喜
 「祈りは、願いではない。むしろ、祈るとは、願うことを止め、何ものかのコトバを身に受けることではないだろうか」(p.64)

 

孔子
 「愛する者を喪い、私たちが悲しむのは、単なる抑えがたい感情の発露ではないだろう。悲しみは、それを受け取る者がいるときに生じる一つの秘儀である」(p.92)

 

志村ふくみ
 「意思よりも先に導きがやってくる。むしろ、人間のもっとも大切な仕事はこの導きを見過ごさないことにある」(p.98)

 

堀辰雄
 「人は、常に今にしか生きることができない。やわらかな風は、どこまでも今を愛せと告げる。語るのは自然であり、聴くのが人間であるという公理を、風は幾度となく示そうとする」(p.121)

 

リルケ
 「対称の認識においては誤っているが、その彼方に見るものには大きな意味がある」(p.136)

 

神谷美恵子
 「人を真に驚かす言葉、あるいは人を真に救う言葉は、いつもその人の本人の魂において生まれる。先哲の、あるいは詩人、偉人と呼ばれる人の言葉は、その人が自らの胸に潜んでいるコトバに出会うための道しるべにすぎない」(p.159)

 

ブッダ
 「人格者に出会ったとき、私たちは『あの人には哲学がある』という。このときの『哲学』とは血肉化された叡知の異名である」(p.169)

 

宮澤賢治
 「かなしみがある。だから、幸福を全身に感じると賢治はいう。この世には身にかなしみを受けて生きてみなければ、けっして映じてこない風景がある」(p.186)

 

フランクル
 「人は、単に生きているのではない。生きることを人生に求められて存在している。人生が、個々の人間に生きることを求めている。人生はいつも、個々の人間に、その人にしか実現できない絶対的な意味を託している」(p.211)

 

辰巳芳子
 「食は『いのち』と直結している。また、食とは、肉体が滅んでも『いのち』はけっして失われないことを日々新たに体験することである。さらに食は、万人に開かれた『いのち』を経験する場でもある。いつどんな人でも、食を通じて、万物を生かしているもう一つの大いなる『いのち』にふれることができる。食とは『いのち』と『いのち』の交感である」(p.234)

 

皇后
 「他者への情愛は、喜びのうちにもあるだろうが、悲しみのなかにいっそう豊かに育まれる。なぜなら、悲しみは、文化、時代を超え、未知なる他者が集うことができる叡知の緑野でもあるからだ。喜びにおいて、文化を超えて集うことはときに困難なことがある。しかし、悲しみのとき、世界はしばしば、狭くまた近く、そして固く結びつく」(p.244-245)

 

井筒俊彦
 「よく書けるようになりたいなら、よく読むことだ。よく読めるようになりたければ、必死に書くしかない。よく読むとは多く読むことではない。むしろ、一節のコトバに存在の深みへの通路を見出すことである」(p265)

 

【2311冊目】久保寺健彦『ハロワ!』

 

 

ハロワ! (集英社文庫)

ハロワ! (集英社文庫)

 

 

嘱託員としてハローワークで働く若者が主人公の連作短編。

正直、小説としてどうかと問われれば、今一つの部分も多い。文章も粗いし、説得力に欠ける部分もあるし、筋書きも散漫だ。登場人物のキャラクターはなかなか面白いのだが(特に千堂と樋口)、そこに面白いエピソードを絡めてキャラを立たせることができていないので、せっかくの造形が埋もれてしまっている。

ついでに言えば、同じ相談業務を担当する公務員としての立場で言えば、「あるある」な部分もあるが、??な部分も。まあ、地方公務員と国家公務員、福祉事務所と職業紹介という違いはあるのだろうが。

いずれにせよ、ハローワークという、小説のネタがゴロゴロ転がっている場所を選んだにしては、材料が手に余るというか、全体的に生煮えの印象が残った。だが、それにもかかわらずこの小説は、読ませる。ところどころ首をひねりながらも、勢いで最後まで読ませる熱量と勢いをもっている。

なぜなのか、著者のことは全然知らないのでここから先は推測になるのだが、たぶんこの沢田信という主人公の抱えている課題や切実さが、著者自身の抱えているそれと重なっているからではないかと思う。多くの人と同時に話をするのが苦手な一方、音楽が好きで夜通しクラブで過ごす二面性、「正しい生き方」にこだわった窮屈な生き方、それが昂じて、思いを寄せている人妻と自分の部屋で過ごしながらそれ以上の関係になりきれないムズキュンな設定など、ウソっぽいと感じる人もいるだろうが、むしろこの「小説としてのウソっぽさ」に、私はリアリティを感じた。まあ、ムズキュンに関しては「逃げ恥」の例もあることだし、現代ではこっちのほうがかえってリアルなのかもしれないが。

もちろん、よほど自分の中にダークサイドをもっていないと、この手を何度も使うことはできない。今後、この著者がどんなふうに成長し、小説としての練度を上げていけるか、それとも本書かぎりの一発屋で終わってしまうか、どうやら最近新作も出たようなので、楽しみにしたいと思う。最初から「うまい」ヤツより、「ヘタだけどなぜか読ませる」ヤツのほうが、大化けする可能性は高いのだから。

【2310冊目】渡辺正峰『脳の意識 機械の意識』

 

 

意識は存在するか、と聞かれて、存在しないと答える人はいないだろう。なぜか? 自分が意識をもっているのは、言うまでもなく自明だから。

だが「意識」を科学的に研究しようとするとき、もっとも厄介なのが、この「自分にとって存在するのが明らか」という点だ。通常であれば、あるものが存在するかどうかを、実験や測定によって明らかにするところから、研究や考察が始まる。だが、意識は「あるに決まっている」というところから始まるのだ。

しかもそれは、あくまで主観的な把握であって、客観的にこれを捉えるのは至難の業である(いわゆる「意識のハード・プロブレム」)。極端に言えば、自分以外の人が意識をもっているかどうかを証明することは、基本的にはできない。あなたの隣にいる人が実はアンドロイドで、「意識があるフリをする」ようにプログラムされていたとしても。

ところが、である。著者はなんと「意識の存在を科学のまな板に載せる」ためのメソッドを考案した。それが「人工意識の機械・脳半球接続テスト」だ。著者はまず、人間の意識が、右脳と左脳の統合によって生じることに着目する。そこで、人間の脳の半分を同様の機能をもった機械につなぎかえ、それでもその人間が意識を感じることができるかをテストする、という発想に至ったのだ。もう少し具体的に言えば、脳半球側の視野で見えているものと、機械半球側の視野で「見えている」ものを統合して視覚が生じ、「見えている」という感じが得られれば、そこに意識が生じたと見るのである。

それだけ? と思われるかもしれないが、ポイントは「見えている感じ」が得られるかどうかなのだ。こうした「感じ」をクオリアと言い、これは意識の存在なくしては得られないものだという。もちろんこれは、視覚情報に基づいてその人がどんな行動を起こすか、といった事とは別次元の話だ。そんなことならロボットにだって自動運転の自動車にだってできる。問題は「意識」なのである。

本書は脳神経科学の初歩から始まり、意識と行動をめぐる最先端の研究にまで至るもので、正直最後の方はかなり難しい。だが「意識」という自然科学の超難問に挑もうという気迫のようなものが伝わってきて、読んでいて小気味よい一冊だ。ただ、ここまで読んでもなお、意識という「主観」の産物を、「客観」の申し子である近代自然科学が本当に捉えられるのか、という疑問は残ってしまった。主観と客観の間を飛び越えるには、そもそも自然科学の方法とは根本的に違ったアプローチが必要なのではないだろうか。