自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【2298冊目】堤未果『日本が売られる』

 

日本が売られる (幻冬舎新書)

日本が売られる (幻冬舎新書)

 

 

衝撃的な本。この本に書かれていることが半分でも事実なら、日本はまさに「ひょうすべの国」まっしぐら、ということになる。

国家が率先して、国民の健康も安全も、高値をつけた企業に売り払う。最近話題の出入国管理法も、その陰に隠れてあまり議論されない水道民営化も、さらにはこないだ大阪に決まった万博も、その裏にはとんでもないストーリーが隠されている、と本書は指摘する。

喫緊の課題としてヤバいのは水道だ。あまり話題にならないまま通過してしまった改正水道法。水道料金に関する規定は「公正妥当な料金」から「健全な経営のための公正な料金」に変えられる。競争原理が働くから良いじゃないか、って? だが、いったん事業者が決まったら、水道事業はその性質上、一社独占にならざるをえない。送電網を共有して複数の電力会社が電気を流す電力事業とはワケが違うのだ。

食の問題では、遺伝子組み換え食品表示がやり玉にあがる。そもそも、日本のスーパーに並ぶ食品の6割に遺伝子組み換え原料が使われている。それでも今までは、遺伝子組み換え混入率5%未満であれば「遺伝子組み換えでない」という表示をすることができた。だが3月28日に消費者庁「遺伝子組換え食品表示制度に関する検討会」は、検出0%でないと「遺伝子組み換えでない」という表示をできないようにする方向だという。

0%なら混入がまったくなくなるのだから良いじゃないか、と思われるかもしれないが、実は混入をまったくの「ゼロ」にすることは不可能なのだ。どんなに精度を高めても、0.3~1%はどうしても混入してしまう。となると、これまでは99%の精度で分別できていたのに、どんなにやってもゼロにならないのであれば、分別自体を行う意味がなくなってしまうのだ。

他にも「ミツバチ」「牛乳」「森林」「漁業」「労働者」「学校」「福祉」「医療」等々、まあよくぞここまでと思えるほどの「日本売り」のオンパレードの一冊だ。煽り気味の口調は割り引いて考えたとしても、重大な指摘がてんこ盛り。アメリカの「株式会社化」を告発してきた著者だけに、日本の現状への危機感が強烈に伝わってくる。

【2297冊目】市橋達也『逮捕されるまで』

 

 

 

 

 

リンゼイさん殺害容疑で、一時期いろんなところに顔写真が出ていた市橋達也。だが、2年7カ月の間、彼は捕まることなく逃げおおせていた。ほとんど着の身着のままのままで逃げ出した男が、どのようにしてこれほどの期間を逃げおおせたのか。本書はそのプロセスを市橋達也自身が綴った一冊だ。

北は青森から、南は沖縄まで。飯場で働いたり、遍路道を歩いたり、なぜかディズニーランドに行ったりと、逃亡犯にしては思い付きのような行動も目立つが、それでも捕まらなかったのは、市橋が相当にしたたかだったのか、それとも日本の警察がぬるいのか。

肝心の事件については全くと言ってよいほど触れられていない。犯した罪に対して「申し訳なかった」と何度も書くが、それ以上の深い反省も、劇的な改心もなければ、一生逃げ切ってやろうという気迫も感じられない。中途半端といえば、市橋の姿勢は相当に中途半端なのだが、その適度な緊張感と適度な余裕が、ここまで捕まらなかった一因なのかもしれない。

市橋自身は、いわば臆病な一匹狼にすぎない。だが、ある種どこにでもいるようなこうした男が通ったルートを知ることは重要だ。少なくとも、次に同じような逃亡事件が起きた時、逃亡者の行動パターンをある程度推測できるからだ。もっとも、本書が書かれた大きな理由は、自分についての誤ったメディアの報道を訂正したいということだったので、自分の経験を表沙汰にすることで社会の役に立ちたいという意識はあまりなかったようである。

ただし、当たり前のことだが、本書に書かれたことがすべてとは思うべきではないだろう。裏の取りようがないのだから、書きたくないことは書かなければよい。誰も気づかない。例えば、メディアで女装しているとか歌舞伎町で性を売っていると言われて腹が立ったと書いているが、本当にそういうことを「していなかった」かどうかも、今となっては判断のしようがない。なぜこんな「意地悪」を書くかというと、本書の文章のそこかしこに、言葉とは裏腹に、市橋自身の自己顕示欲や自己正当化が感じられるからなのだ。

【2296冊目】伊藤計劃『ハーモニー』

 

ハーモニー (ハヤカワ文庫JA)

ハーモニー (ハヤカワ文庫JA)

 

 

「大災禍」と呼ばれる災厄の後の近未来世界が舞台というのは、いわゆる「核戦争後の世界」パターンだが、そこで登場したのが徹底した「福祉厚生社会」であるという設定がなんとも痛烈だ。なにしろそこでは、人は体内に埋め込まれた「WatchMe」という監視システムによって常に健康状態が監視され、検知された異常はいかなるものであってもただちに修復される。結果として、この世界に生きる人は病気になることもなく、風邪や発熱さえ経験することがない。わずかな精神的ショックにさえ、膨大な数のセラピストが常駐し、万全のメンタルケアが行われる。

そんな究極の健康社会において、6,582人が一斉に自殺を図るというショッキングな事件が起こる(病死がなくなった世界において「自殺」という手段は失われていないというのは、なんとも皮肉である)。その中の一人が、主人公トァンの友人キアン。キアンはトァンの目の前で、テーブルナイフを自分に突き立てて死んだのだ。そして、トァンとキアンには、女子高生時代の共通の仲間であって、この健康監視社会を嫌悪するミァンがいた……。

とんでもない小説である。近未来という状況を巧みに生かしつつ、現代社会の健康志向をグロテスクなまでに推し進め、その究極形態を破綻なく描き出した想像力と構築力。頻繁に挿入される謎のタグの意味を含め、ラストで明かされる事実の衝撃。単にストーリー上のどんでん返しというだけでなく、本質的な意味においてとんでもないひっくり返し方をしている。

本書に描かれた世界は、ユートピアか、はたまたディストピアなのか。いや、そうした二分法は正しくない。むしろユートピアとは、同時にディストピアであると考えるべきなのだろう。著者は、健康管理の徹底というギミックで、そのことを見事にあぶりだしたのかもしれない。いや、実はさらにここから先があるのだが、そのことを明かすとラストのネタバレをすることになってしまうので、未読の方のために今は伏せておく。願わくばわれわれの社会や国家が、のっぺりした明るさの医療ユートピアになることなく、「欠点」と「不備」と「あいまいさ」と「不健全」を内包したままでありますように。

【2295冊目】今井むつみ『ことばの発達の謎を解く』

 

ことばの発達の謎を解く (ちくまプリマー新書)

ことばの発達の謎を解く (ちくまプリマー新書)

 

 

大人になってから外国語をマスターするのは大変なのに、どうして子どもは言葉を使いこなせるようになるのだろう。本書は、その秘密を認知科学の観点から解き明かす一冊だ。

面白いのは、架空の単語を使った実験だ。例えばあるぬいぐるみを「チモ」と名付けると、幼児は形の似たぬいぐるみであっても「チモ」と認識する。だが、例えば「チモいのはどっち?」と聞くと、形は違っても、例えば色が同じぬいぐるみを選ぶ場合がある(ちなみにこの例えは本書そのものからの引用ではありません。念のため)。「○○い」という言葉は、「赤い」「大きい」のような形容詞として認識されるからだ。また、ペンギンを知らない幼児にペンギンのぬいぐるみを「チモ」と呼ぶと、その子はペンギン全般を「チモ」と呼ぶが、ペンギンを知っている場合、「チモ」はそのぬいぐるみだけの固有名詞として認識するのだという。

オノマトペについてのくだりも印象的だった。オノマトペとは「ガラガラ」「ポーン」のような言葉のことであるが、子どもや子どもに接する人は、こうしたオノマトペをうまく織り込むことで、単語の習得に先行して言葉の組み立てを覚えているのだ。「うがいをしなさい」ではなく「ガラガラペッしなさい」のほうが伝わるし、それを「グジュグジュペッじゃなく、ガラガラペッよ」と言えば、うがいのやり方まで伝えられるのである。しかも、日本語をまったく知らない外国人にも、このオノマトペは伝わるという(おそらくは逆も然り、なのだろう)。

数詞に関する指摘も興味深い。これは大人の場合だが、例えばアマゾン奥地のピラハという部族は、「1」「2」に相当する言葉はある(ただし、「1」の言葉は「少ない数」という意味にも使われる)が、それ以上は「多い」という意味の言葉になってしまう。この人たちに「肩を叩かれたら、叩かれた数だけの木の棒を並べてもらう」という実験をしたところ、4回より多い数を正確に区別することができなかったというのである。

このことは、数の言葉に限ったことではないだろう。よく言われるのは色の区別だ。例えばタスマニア人の言語は「黒」を何種類にも分けて、違った名前で呼ぶという。日本人なら同じ「黒」にしか見えなくても、彼らにはそれぞれ違う色に見えていることだろう。これらはつまり「言葉が概念を生む」ということであり、言葉の習得が私たちの思考や理解を規定するということなのだ。その線引きを作っているのが「カテゴリー」である。

これらは単語の問題だが、さらに文の構成になってくると、今度はシステム、構造が大事になってくる。単語が違っても構造が同じなら「同じ」と認識する。それは言い換えれば、関係性をもって物事を捉えるということである。著者は、こうした関係の類似性によるものの見方、考え方が、科学的思考の基礎になるという。

何を「同じ」と捉え、何を「違う」と見るか。そこには「カテゴリー」と「システム」が働いている。いわば、子どもは言葉を覚えることによって、世界の見方を習得しているのだ。ということは、外国語をマスターするとは、自分が子どもの頃から育んできたものとは別の見方を手に入れることである、ということになる。なるほど、一筋縄ではいかないはずである。

 

【2294冊目】マイケル・サンデル『それをお金で買いますか』

 

 

先日に引き続き、マイケル・サンデル。前著は既存の思想の紹介が多かったが、コチラは具体的な事例が多く、そのぶんいっそう考えさせられる。

例えば、お金を払えば遊園地の行列に割り込むことができるとしたら、どうか。別に構わない? なら、お金を払えば病院の予約に割り込むことができるとしたらどうだろう。あなたは納得できるだろうか。

別の例。保育所に子どもを預けている親が、迎えに行く時間より遅れてしまうとする。そんな親があまりに多いので、保育所が、遅れた親に対して罰金を要求することをどう思うか。罰金を設けることで、そうした親は減るだろうか。

実際の調査では、意外な結果が示されている。罰金を設けることで、遅刻する親の割合はむしろ増えたのだ。なぜか? 迎えに遅れることは、親にとっては後ろめたいことだった。保育士に迷惑をかけているからだ。だが、お金を払うことで、遅刻は単なる「対価を払った延長サービス」になってしまったのだ。

さらに別の例。絶滅危惧種であるクロサイの密猟を抑止するため、南アフリカでは、なんと15万ドルを払うことでクロサイを撃ち殺す権利を販売したのだ。収入は民間の牧場主に入り、限られた数のクロサイを繁殖させ、世話をし、保護するインセンティブになる。実際に、この取り組みは功を奏し、クロサイの頭数は増えているという。

保育所の例とクロサイの例は真逆のようで、どこか似通っている。経済学的には理屈が合っているらしいが、どこか釈然としない気持ちが残る。著者によれば、それは道徳的な価値に訴えるべき事柄を、経済的な価値に置き換えているからだ。「お金で買えないものがある」と某CMは謳っている。だが実際には、お金で買えないものなどほとんどない。ただし「お金で買ってはいけないもの」はあるのである。その線引きは、経済学にはできない。それは道徳の問題であり、哲学の領域なのだ。

思えば、そもそもカール・ポランニーは「労働」「土地」「貨幣」を経済の領域から外すべきだと言っていた。しかし事態は、いっそう深刻な方向に進んでいる。われわれが直面しているのは、「人の命」や「政治」に値段をつけるかどうかということなのである。