自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【2279冊目】島崎謙治『医療政策を問いなおす』

 

医療政策を問いなおす: 国民皆保険の将来 (ちくま新書)

医療政策を問いなおす: 国民皆保険の将来 (ちくま新書)

 

 

どんな政策マターにも賛否両論はあるものだが、その中でも比較的、国民の誰もが賛成しているのが、国民皆保険ではないだろうか。なにしろ保険証1枚あれば、基本的に全国どこの医療機関にもかかれるのだ。負担は現役世代で3割と決して軽くはないが、ある程度以上の金額になれば、どんなに医療費がかかっても一定額で頭打ちになる。考えれば考えるほどシンプルで秀逸なシステムである。

医療政策全体で見ても、国民皆保険は、複雑だが周到な仕組みで成り立っている。ちなみに国民皆保険の導入を検討した時に、一番消極的だったのは、意外なことに当時の厚生省だったという。一方、皆保険を強く支持したのは地方自治体であった。現在の市町村で国保運営が重荷になっていることを考えると、ちょっと信じられない思いがする。

いずれにせよ、国民皆保険をベースにした日本の医療政策は、それなりに国内外から評価されてきた。だが、問題はこれからの少子高齢化の時代を、この制度がうまく乗り切れるかどうかである。本書を読む限り、その展望は決して明るくない。

そもそも医療政策には、大きく分ければ3つの要素しかない。1つ目は医療の質、2つ目はアクセス、3つ目はコストである。著者は、この3つはトレードオフの関係にあると指摘する。コストをこれ以上かけたくなければ、質を下げるか、医療機関を減らしてアクセスを犠牲にするしかない。一方、質やアクセスを求めるならコストはかけざるを得ない。

当たり前のことである。だが、実際にアンケートを取ってみると、「負担を減らすべき」と答えている人が同時に「社会保障の給付は引き上げるべき」と答えているような例が1割以上存在するという。だが、もちろんこんなことはありえない。それどころか、「現状程度の負担」で「給付水準を維持」することさえできないのだ。なぜなら、高齢化が進むにつれて社会保障費は増え続けるし、そもそも現状でも社会保障費は税収や保険料で賄えておらず、特例公債という名の借金でどうにか埋め合わせているからだ。

ではどうすればよいか。本書では複雑な医療制度とがっぷり四つに組んで、いくつかの提案を行っているが、とにかく増税などの手段で収入を増やすこと、高齢者の自己負担率を上げることなどで「入り」を増やす以外に、抜本的な解決はありえない。増税にしても、消費税率を10パーセントにするくらいでは、全然足りないという。医療費をファイナンスし、現在の国民皆保険制度を維持するには、社会全体でどのくらいの負担を甘受すべきか、国民全体で、本気の議論を一日も早く始めなければならない。それは間違いなく政治の役割である。オリパラごときで浮かれている場合ではないのである。

【2278冊目】笙野頼子『ひょうすべの国』

 

ひょうすべの国――植民人喰い条約
 

 

気になって、遠目でちらちら覗いていたが、なんだかおっかなくって近寄りがたかった笙野頼子作品。思い切って手に取ったのがこの一冊というのは、果たして正解だったのか、どうなのか。

本書は高らかに宣言する。TPPは「亡国人喰い条約」。ひとたび署名してしまえば、農業も貯金も薬も、すべて外国の企業に絞り取られる。いや、日本そのものが喰われようとしているのだ。ひょうすべの施政方針演説は、こう叫ぶ。

「この国をどうやって管理するか、それは、あなた方の持っている、命、赤ん坊、未来、お金、土地、海、空気、遺伝子、血液、性器、プライバシー、天然記念物、個人の歴史までも、どうやって世界企業の資産にしていくかの方針を述べるのです。最も大切なのは、個人が無料で工夫して出来る事を、全て企業の傘下にして高い高い料金を取る事です。そうですとも! 特許なき「野蛮」を、ひょうすべは許さない」(p.36-37)

 

だが、ひょうすべとは何なのか。「表現がすべて」の略である。表現がすべて、表現の自由。それって素晴らしいこと、と思われるだろうか。だがここでいう「表現」の中身とは、こういうこと。

「権力や企業の告発報道だけは絶対させない。嘘つきの自由、搾取の自由。またその他にはそういうお金の精だけを支持したがるような、売り上げ専一、強いものの天下を支えてくれる、麻薬のような、弱者虐待の自由、性暴力の味方、差別の推奨。それ簡単に言えば、ちかんごうかん、ひとごろし、まとめて言うなら経済人喰い、ヘイトゾンビ、それが表現のすべてだと言っている、そういうわけですね」(p.21)

ここに描かれているのはディストピアだろうか。そうかもしれない。だがそれを言うなら、たとえば女性専用車両を「男性差別」と主張する連中が幅を利かせている国、総理の「お友達」山口某にレイプされた女性がバッシングされて海外で生活し、「お友達」のほうはおとがめなしの国、やはり総理を礼讃する本を書いている小川某がLGBTと痴漢を並列して論じる国はどうなのか。

本書の本当の恐ろしさはそこにある。著者は一応、本書はTPPが発効した後のもうひとつの日本=「にっほん」国を舞台にしていると言っている。だが読者は、読んでいるうちに、実は私たちの住んでいる国が、すでにディストピアと化していたことに気づかされるのである。そしてそこには、小川某のような「ひょうすべ」が、勘違いした表現の自由を振りかざして跋扈している。そんな国をつくってしまったのは、TPPも森友問題も沖縄の基地問題も、真剣に怒らず憂えず投票にすら行かず、へらへら笑って無関心を決め込んで無いことにしていた、私たち国民自身にほかならないのである。

【2277冊目】向田邦子『無名仮名人名簿』

 

新装版 無名仮名人名簿 (文春文庫)

新装版 無名仮名人名簿 (文春文庫)

 

 

うまいなあ、と素直に感じる。読みやすく、ウィットとユーモアが効いていて、視線はあくまでも庶民的で温かく、それでいてどこか突き放した冷静さもある。『夜中の薔薇』『父の詫び状』に続いて向田邦子のエッセイは3冊めだが、ここに至っても、どれ一つとして嫌味なもの、破綻したもの、不快なものがない。

今回特に感じたのは、バランスの良さだ。自分の感情や思いをさらけ出しつつも、どこかでスッと線を引いているというか、そんな自分を冷静に観察しているもうひとりの向田邦子がいる。だから、恨みつらみのある相手であろうと笑い飛ばすように書けるし、不愉快な思いをしたエピソードも、その「感じ」は伝えつつ、読者には嫌な思いをさせないように書けるのだ。

人の類型というか、今で言えば「あるある」的なものを捉えるのもうまい。例えば「パセリ」というエッセイでは、付け合わせのパセリを食べようとすると止める人がいる、というところから始まり、そういう人はさざえのつぼ焼きでも中の汁をすすらない、ネクタイも渋くて凝ったものをわざとはずしてゆるく結ぶ、背広も地方の有名な人に作らせた「うぐいす色に七色とんがらしをぶちまけたような手織のホームスパン」、名刺はこれこれ、結婚式のあいさつはこうこう、と畳みかけるように並べてくる。具体的すぎてかえって笑ってしまうのだが、それでもどこかに、こういう「パセリな人」のイメージが浮かんでくるのである。

世代的には昭和ど真ん中であり、「一億総中流」なんて言葉がリアルタイムなものとして出てきたり、幼い頃の戦争の記憶がするりと出てきたりもするのだが、それでも感覚が古びていないのに驚かされる。よく時事ネタを扱うエッセイストなどが、後から読んだらわからなくなってしまうんじゃないかと心配されているのを読むことがあるが、そういう人は向田邦子のエッセイをしっかり読まれると良いと思うのだ。一方、著者の生年が1929年というのを見ると、ふと思ってしまうのである。もし今も向田邦子が存命であったら(89歳かな?)、今の世相や社会をどんなふうに観察し、綴るのだろうか。平成も終わろうとしている今の世の中もまた、昭和の時代と同じようなせつなさとおかしみに満ちているだろうか?

【2276冊目】エイミー・E・ハーマン『観察力を磨く名画読解』

 

観察力を磨く 名画読解

観察力を磨く 名画読解

 

 

記事としてアップするのは「ムンク展」の直後になってしまったが、読み終わったのはもっと前。ムンク展もその前のフェルメール展も、この本を読んでいなかったら、まるで違う体験になっていたと思う。

原題は「Visual Intelligence」。まさに「見るインテリジェンス」を高めるのが、この本の目的だ。ユニークなのは、そのためのツールとして使われるのが、古今の名画であるというところ。その理由は、アートとは「途方もない量の経験と情報の蓄積」(p.29)であるからだ。

本書はそのことを実感させるために、実際に多くの絵画を取り上げて、読者にエクササイズさせてくれる。例えばフェルメールの『夫人と召使』を見たことのある人は多いだろう。え、ない? では、コチラをとりあえずどうぞ↓

 

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さて、ご覧になった方に聞いてみたい。上の絵には、例えば「膝に垂れるオレンジ色の紐」「紙の上半分に書かれた文字」「背後の幕のようなたるみ」「インク壺とコップに映り込んだ外の景色」等が描かれている。では、この4つすべてに気づいた人は、いったいどれくらいいただろうか?

大事なのは、すべての情報はフェルメールの絵の中に含まれているということだ。ところが、人は細部の描写を「見ていながら、見ていない」。そのことを著者は「非注意性盲目」と呼ぶ。

もちろん、人は見落とすことがあって当然だ。問題は、自分が見落としているかもしれない、という自覚を、ほとんどの人はもっていないことだ。確かに、美術館だったら、それで問題ないかもしれない。だが、その人が犯罪事件の目撃者になったら? あるいは、その人自身が警察官だったらどうだろうか?

見えていたはずのものが目に入らない、だけではない。人はそこに書かれていない情報を読み取ろうとする。若い女性と年配の女性が寄り添っていたら母娘と考え、ラフな格好で走っている黒人とその後ろを走っている白人の警官がいたら、黒人は白人警官に追われていると考える(欧米圏での場合に限り……と、信じたい)。人は多かれ少なかれ、先入観(バイアス)の塊なのだ。

だからこそ、警察官や消防士、児童虐待に関わるケースワーカーや航空機のパイロットなどは特に、本書のような「学び」が必要なのである。いや、それ以外のどんな人にとっても、思いがけない危機的状態に置かれた時は、目に入るすべての情報から確実な要素を余さず集め、優先順位をつけ、客観的に判断できるかどうかが、時として生死さえ分ける。だからこそ、本書のような「トレーニング」が大事なのだ。

ちなみに、老婆心ながら一言。こうして細部を観察し、読み解く訓練をしておくことは、肝心の絵画鑑賞の質も間違いなく上げてくれる。少なくとも「絵の解説文を読まないと絵が楽しめない」という水準からは、確実にステップアップできることと思う。

【本以外】ムンク展に行ってきた

急に休みが取れたので、雨の中を上野まで行ってきた。目的は、ムンク展。

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平日で悪天候、開催から間もない時期という好条件ながら、けっこう人が入っていてびっくり。だがその割にどの絵も見やすかったように感じたのは、東京都美術館のオペレーションやレイアウトがよくできていたこともあるように思う。混みあうのが分かっている「叫び」の前は、動きながら鑑賞する列を前に置き、その後ろをパーティションで区切って「止まってじっくり見たい人」のためのエリアにしていた。比べては何だが、『「怖い絵」展』『フェルメール展』がいずれもカオス状態だった上野の森美術館とは大違いだ。そういえば東京都美術館で以前やっていた『若冲展』も、ひどく混んではいたが、その割にどの絵もちゃんと鑑賞できるよう工夫されていた。いったいどこが違うのか。

それはともかく、さて、ムンクである。100点以上という破格の規模だが、ほとんどの作品がものすごいエネルギーを放射しているように感じた。パワー、というのともちょっと違う、どちらかというと「怨念」のようなエネルギーだ。だいたい、しょっぱなの『地獄の自画像』がものすごい。背後に迫る影が、自分を呑み込みそうになって迫ってくる。

『叫び』以外に印象に残ったものをいくつか挙げると『メランコリー』『幻影』『赤と白』『浜辺にいる二人の女』『絶望』『不安』『赤い蔦』『マドンナ』『目の中の目』『クピドとプシュケ』『灰』『太陽』『星月夜』『狂った視覚』等々、他にもいっぱいある。『マドンナ』はエロチックとかなんとか言われているが、私にとってはやっぱり目が怖すぎる。『目の中の目』も不気味な印象で忘れがたい。『叫び』と同じ部屋にあった『絶望』『不安』『赤い蔦』は(『叫び』もあわせて)トラウマ級の傑作。『赤い蔦』は、ポオの怪奇小説キューブリック映画の『シャイニング』の怖さを思い出した。

そんな中で、やはりインパクトがひとつ飛び抜けているのが『叫び』だ。あの迫力は忘れがたい。見ているうちに、ねっとりとした不安と恐怖が心の奥底をざわつかせる。うねりながら見るものを巻き込む圧倒的な感情。これはまさに、異形の傑作だ。

写実でもなければ、抽象でもない。理性も感情も通り抜けて、無意識の不安と恐怖を直撃する。こんな画家は他にいない(ルドンやゴヤも怖いが、またちょっと違う)。そんな中で後期の作品が明るく健康的なのが、どこか救われた気分になる。特に『太陽』の圧倒的なまぶしさときたら! これはおそらく、最も暗い夜を抜けてきた者だけが描くことができる、絶対的な昼の絵画なのである。