自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【2251冊目】吉村昭『生麦事件』

 

生麦事件〈上〉 (新潮文庫)

生麦事件〈上〉 (新潮文庫)

 

 

 

生麦事件〈下〉 (新潮文庫)

生麦事件〈下〉 (新潮文庫)

 

 

生麦事件自体を知っている人は多いが、あの事件からその後の討幕、明治維新までを一本の糸でつなげる試みを初めて行ったのは、どうやら本書であるらしい。

薩摩藩大名行列に遭遇した騎馬のイギリス人を殺傷したこの事件は、実際、一つ間違えば日本の植民地化につながりかねない危険性を孕んでいた。イギリスは、これよりはるかにささいな理由で、これまでにいくつもの国に軍事侵攻し、支配下に置いてきたのだ。本書の前半は、この事件をめぐる幕府、薩摩藩、イギリス公使ニールの動向をスリリングに描きつつ、その背景にある、朝廷を中心とした攘夷の狂熱を浮かび上がらせていく。その迫力は、歴史の結末を知っていても、読んでいると、これは日本も植民地化されてしまうのではないか、と思えてくるほどだ。

そしてご存知の通り、実際、薩摩藩とイギリスは薩英戦争を起こすわけだが、面白いのは、ほとんど攘夷一色だった薩摩藩が、イギリス軍の圧倒的な実力を目の当たりにして一瞬で開国に切り替わるくだりであった。さらに興味深いのは、イギリス・フランスへの留学を提言した五代という人物が、その留学生の中に「三人の過激な攘夷論者」を入れるべし、と主張するくだり。現代で言えば、ヘイトスピーチを垂れ流す連中に海外留学の機会を与えるようなものだろうか。

こうした動向が遅れて長州にも波及し、結局、外国と戦火を交えた薩摩・長州の二藩が、いずれも急進的な攘夷主義から一挙に開国に転換、その後の明治維新を牽引したわけであるが、同じく外国と戦火を交え敗北した太平洋戦争と比べて印象に残ったのは、薩摩・長州の「戦争の終わらせ方」の巧さであった。いたずらに相手の要求に屈せず、いわば毅然として戦争を起こすが、ある程度の名分が立った時点で和解の道を探り、双方をある程度立てる形で和議に持ち込む。戦争と外交が表裏一体となった、鮮やかな「ケンカの終わらせ方」を、日本はどこで忘れてしまったのだろうか。

【2250冊目】松本理寿輝『まちの保育園を知っていますか』

 

まちの保育園を知っていますか

まちの保育園を知っていますか

 

 

読んですぐ、似ているな、と思ったのが、フローレンスの駒崎さん。「こども」を相手にしているのも共通しているが、子育て経験がない時期から「こども」について考えはじめたところも一緒。むしろ、自分の体験という先入観がないからこそ、思い切った事業を立ち上げることができたというべきか。

本書の著者が立ち上げたのは、保育園。それも、まちの拠点となり、こどもを中心にまちがつながるような「まちの保育園」である。とはいえそれは、こどもをまちづくりの「ダシ」に使うようなものではない。むしろ、著者は徹底した「こども中心主義」で保育園を構想している。

このあたりは、いわゆる待機児童問題から入っていく保育園論とは大きく違うところだろう。待機児童という視点は、どうしても「働く親」のための保育園、という考え方につながりやすい。もちろんこどもを産んでも働き続けられる社会は大事なのだが、ちょっと油断すると「量を満たす」ことが優先されやすいのが、この種の論法の怖いところだ。こどもを預かる施設が「量優先」であってよいはずがない。質と量は不可分一体、車の両輪であるはずだ。

著者のいう「こどもを中心としたまちづくり」とは、こども自身が生き生きと過ごすことができる場所があることが前提である。こども自身が道具立てになってしまっては、こどもの魅力も減殺され、結果としてまちの中心にはなりえない。

「子どもたちから、私たちが受けるものは想像以上に多い。特に、「子どもが子どもをしていることの豊かさ」には、いつも新鮮な感動があります。子どもが一つ一つ、ものごとや人との出会いを持つ時に流れる時間に、大人が関わる時、たくさんの発見があります」(p.145-146)

この感覚、この感性なのだ。管理教育とは正反対の、子どもの力を引き出す「保育」の力が、この本からは感じられる。子どものもつ力こそが、まちを変えていく。おそらくそれこそが、「まちの保育園」の目指すところなのである。

【本以外】ウインド・リバー

 

 

 

毎月1日は「映画の日」。土曜日ということもあり、気になっていた映画を観てきた。

 

舞台はインディアン保留地ウインド・リバー。周囲数キロにわたり人家もなく、車で行くこともできない雪原で倒れ、死んでいた少女は、なぜか薄着で裸足だった。事件を辿るのは、FBIの新米女性捜査官と、助力を頼まれた地元のハンター。

ハンターの本領を発揮して、わずかな痕跡から追跡を繰り広げる「犯人狩り」には、一瞬たりとも目が離せない。だが、この映画は単なるアクションやサスペンス映画ではない。背景にあるのは「雪と淋しさしかない」インディアン保留地のすさんだ虚無的なありよう。さらにその裏側に横たわっているのは、強制的にインディアンを移住させ、囲い込んできたアメリカという国の欺瞞と理不尽だ。メッセージをダイレクトに出すのではなく、スリリングな展開の中に埋め込む監督の手際は見事。ハンター役のジェレミー・レナーの存在感もすばらしい。

実際に何が起きたかはクライマックス直前に明らかにされる(あの「場面の移動」の仕方も、古典的だが鮮やかだった)のだが、予想どおりというか、ハッピーエンドとは程遠い結末に、インディアン保留地の暗い現実が重なる。映画を観てスカッとしたい!という方はやめたほうがいいかもしれないが、心に残る映画を味わいたい方にはおススメだ。

 

【2249冊目】中島京子『小さいおうち』

 

小さいおうち (文春文庫)

小さいおうち (文春文庫)

 

 

戦前から戦中にかけての日々を、東京の中流階級の家で働く女中の目から描いた作品……という「説明」を読むと、なんだかあまりぱっとしない小説という印象を持たれるかもしれない。ところが、これが読み始めるとやめられない面白さなのである。地味といえば地味な話を書きつらねながらも、ページを繰る手が止まらなくなるのは、さすがの「語り」の巧さというべきか。

満州事変、南京占領、真珠湾攻撃ミッドウェー海戦、そして空襲に疎開といった、教科書に載っている「歴史」は、「現代」からみれば、言うまでもなくすでに終わった出来事であり、後の世代によって書かれたもの。だが、その時代が「現代」であった当時の日本人は、こうした出来事をどのように知り、感じていたのだろうか。本書で描かれているのは、まさに「現代」としてあの時代を生きたタキという一人の女性のリアルタイム視点なのである。その印象をひと言でいうと「明るい」。物資の不足もピリピリした世相もすべて込みにして、ユーモアでくるんで差し出す著者の手腕が光っている。

「小説」という言葉が文字通り「小さな説話」「小さな物語」を意味するとすれば、本書はその本来の意味での「小説」の醍醐味を濃密に味わうことのできる作品である。歴史を「現在」の立場から振り返って語るのではなく、評価は後回しにして、良いものも悪いものも、徹頭徹尾等身大で描く。だからこそそこに秘められた人間ドラマが、切なく読み手の胸に刺さるのである。

ところでこのタイトルと表紙のデザインをみて、バージニア・リー・バートンの絵本『ちいさいおうち』を思い出す人も多いだろう。実際にはこれは、戦後絵本作家となった本書の登場人物「板倉さん」による『小さいおうち』なのであるが(その意味もまた、最終章でようやく明かされるのであるが)、それはそれとして、私はこの主人公のタキ自身が、まさに社会の荒波の中にどっしりと立った「小さいおうち」として世の中を眺めつづけた、あの絵本どおりの「ちいさなおうち」に見えてしょうがなかった。生活感覚で戦争を知るためにも本書は必読だが、まずは読者自身がタキさんの「目」になって、楽しく切ない人間模様をたのしまれたい。

 

ちいさいおうち (岩波の子どもの本)

ちいさいおうち (岩波の子どもの本)

 

 

 

【2248冊目】押川剛『「子供を殺してください」という親たち』

 

「子供を殺してください」という親たち (新潮文庫)

「子供を殺してください」という親たち (新潮文庫)

 

 

文庫本の表紙をはじめて見た時は、恥ずかしながら、児童虐待がテーマの本だと思い込んでいた(コミックス版の表紙の方が、はるかに本書の内容に近い)。読んでびっくり、本書のタイトルにある「子供」は、実は大人である。いや、親にとっては子供はいつまでも子供なのであるが、そういう意味ではなく、これは大人になり切れず、あるいは引きこもり、あるいは暴れ、あるいは部屋をゴミ部屋にしてしまった「半・子供」についての一冊なのである。

明らかに異常な行動が見られても、本人は入院は絶対したがらず、家族の説得にも応じない。いや、そもそも本書に出てくる「家族」は、誰をとってみても実に「家族」らしくない。困っていてもどこか他人事のようで、子供に向き合わず、解決を丸投げし、言っていることはコロコロ変わる。読めば読むほど、これでは子供もたまったものではあるまい、と思えてくる。

そんな親たちから依頼を受け、子どもたちを説得して医療につなげる役割を担うのが、本書の著者が展開する「精神障害者移送サービス」なのである。今、簡単に「説得」と書いたが、この人たちが行う説得はハンパではない。5時間にわたる話し合いで入院に同意したケースもある。だが、大事なのは時間だけではない。

第一章「ドキュメント」では、弁護士の両親をもつ慎介への対応が紹介されている。入念なリサーチやシミュレーションを踏まえ、相手が目を見返してきたタイミングをとらえ、ここしかない、というポイントに、著者は絶妙の言葉を浴びせる。「慎介! 調子が悪そうだな! 病院に行くぞ!」

そこにはもちろん、テクニックだけではない、事前の情報収集から、相手の感情の奥底にストレートに光を当てるタイミング、そして相手を一人の人間として尊重する姿勢から、今後のかかわりを予想される気迫まで、すべてが高い次元でかみ合っている。ケースワーカーをやっていると、この手の説得に苦労することも多いのだが、本書の事例はまさしく名人芸。読んでいて鳥肌が立った。

他にも入院後の課題(特に3か月という退院期限の問題)から、冒頭にも書いたような親の問題まで、課題はとにかく山積している。だが、誰かがやらなければならないのだ。そうしなければ、本人も苦しく、家族も苦悩することになってしまう。この「誰かがやらなければならない」問題を実際に行い、解決に結びつけている著者の姿勢には、まったく頭が下がる思いである。