自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【2239冊目】ホルヘ・ルイス・ボルヘス『七つの夜』

 

七つの夜 (岩波文庫)

七つの夜 (岩波文庫)

 

 



1977年。77歳の著者が行った、7夜限りの、7つの講演。テーマは「神曲」「悪夢」「千一夜物語」「仏教」「詩について」「カバラ」「盲目について」。いかにもボルヘスらしい自在なテーマ設定だが、話の展開も変幻自在。決して難解ではないが、深い。解説不要、ただひたすらに「知の世界」に遊ぶための一冊だ。

「私がただひとつ主張したいのは、『神曲』というあの至福の書を享受しない権利、それを無心に読むことを差し控える権利など誰にもないということです」(「神曲」)

 



「夢はもっとも古い芸術活動である」(「悪夢」)

 



「その本はあまりに膨大なので、読み切る必要がない。なぜならそれはすでに私たちの記憶の一部であり、今宵の一部でもあるからです」(「千一夜物語」)

 



「アルゼンチン人であるとはどういうことなのか。アルゼンチン人であるとは、私たちがアルゼンチン人であると感じることです。では、仏教徒であるとはどういうことなのか。仏教徒であるとは、理解することではない。そんなことはすぐにできてしまう。そうではなく、四つの崇高な真理と八つの道を感じることなのです」(「仏教」)

 



「詩とは感じ取るものだと私は思う。だからもし君たちが詩を感じ取れないのなら、美しいと感じられないのなら、もし小説が、それからどうなったのかを知りたいという気持ちにさせてくれないのなら、作者は君たちのために書いたのではない。それを脇に置きなさい。文学というのはとても豊かなもので、君たちの興味を引くのにふさわしい作者もいれば、今はふさわしくなく、君たちが将来読むであろう作者もいるのだから」(「詩について」)

 



「言葉について考えるとき私たちは、それが歴史的に最初は音であり、後に文字になったと考えます。それにひきかえ、カバラ(「受容」「伝承」という意味です)においては、文字の方が先であり、神が道具としたのは文字であって、文字によって意味を成す言葉ではないと想像されている」(「カバラ」)

 



「私にとって盲目とはまったくの不幸を意味してきたわけではありません。盲目を哀れみの目で見てはならない。それはひとつの生き方として見られるべきです。盲目とは人の生活様式のひとつなのです」(「盲目について」)

 

【2238冊目】坂井建雄『面白くて眠れなくなる人体』

 

面白くて眠れなくなる人体

面白くて眠れなくなる人体

 

 



「人体を知ることは、自分自身を知る旅でもあります」(p.5)

 



自分でも、自分のことがよくわからない・・・・・・というと、ふつうは性格や心理のことだと考える。でも、「自分」ってそれだけじゃないはずだ。そこには「身体」という、もうひとつの自分が存在するのではないか。

私について言えば、ふだん、自分の身体を意識することはほとんどない。だから、揺れる電車の中で本が読めるのは、手や顔の動きを察知して、逆方向に眼球を回転させているからだ、とか、食事をしていても気管に食べ物が入らないのは、2つの蓋が自動的に「鼻と咽頭の間」と「喉頭の入口」を塞いでいるとか(この働きが衰えると誤嚥をおこす)、鼻の孔が2つあるのは交互に呼吸しているからだとか(これはこの本で初めて知ってびっくりしたことの一つ。ちなみに左右が交代する周期はだいたい1~2時間らしい)とか、そんなコトはぜんぜん知らず、意識もせずに生活している。

まあ、それでちっとも困らないのだから、それでいいのかもしれないが、せっかくこれほどの、想像を絶する精妙で複雑なしくみが「自分の内側」にあるのだから、たまには意識をそちらに向けてみるのも面白い。それに、病気や老化によってそれまでうまく働いていた身体の機能が衰えることで、いろんな症状が出てくるし、私を含むほとんどの人は、そうなってはじめて自分の身体を意識するのだから、そうなる前にいろいろ知っておいても損はないだろう。

ちなみに、さっきの「鼻の孔」以外に、本書を読んで驚いたことを2つ。1つ目。オナラを我慢すると、オナラは大腸から血液中に吸収され、一部は肺を通って呼気として口から出てくるという。2つ目。帝王切開という言葉は、カエサルが開腹分娩で生まれたからではなく、実は単なる誤訳だった(ラテン語の「caesarea」が「Caesar」と間違えられ、そのままドイツ語に訳された)。よって開腹手術は、帝王カエサルとは何の関係もないのである。以上!

【2237冊目】アンソニー・ドーア『すべての見えない光』

 

すべての見えない光 (新潮クレスト・ブックス)

すべての見えない光 (新潮クレスト・ブックス)

 

 

本の内容をまとめるだけなら、読み終わってすぐに書き始めたほうがよい。だが、本が自分の中を通り過ぎていった、その時の感覚や記憶を綴るのであれば、すこし時間をおいたほうがよい。それは時として、読み終わったときは擦過傷のようなものなのだが、しばらく経つと忘れがたい甘酸っぱい想いとともに、不思議なカタチで再生されるのだ。

技術や工学に図抜けた才能をもち、ナチスドイツの技術兵に抜擢された少年ヴェルナー。幼いころに視力を失い、ナチスの手を逃れてサン・マロに身を寄せる少女マリー=ロール。普通であれば、決して交わることのない、ふたりの人生の軌跡。だが、あるとき少年は、生き埋めになった地下室の中で、少女が読み上げる「海底二万マイル」をラジオで聴く。声だけの出逢い。だが、声だけであるからこそ、少年は魂の奥底を揺り動かされる。

一度だけ、ヴェルナーはマリー=ロールと出会い、共に時間を過ごす。500ページを超える長大で、数々のドラマが複雑に織りなされた物語の中で、たった一度。だがその出逢いが、ふたりの人生の中でももっともたいせつな、珠玉の時間となっていくのである。そしてその時間を、読み手もまた、共有することができるのだ。それこそが小説という形式のもつひとつの奇跡であり、私が小説を読む最大の理由なのである。

【2236冊目】村上春樹・川上未映子『みみずくは黄昏に飛びたつ』

 

みみずくは黄昏に飛びたつ

みみずくは黄昏に飛びたつ

 

 
《文体を作る》

「僕はもう四十年近くいちおうプロとして小説を書いてますが、それで自分がこれまで何をやってきたかというと、文体を作ること、ほとんどそれだけです」(p.120)

 



《文体が動く》

「文体が自在に動き回れないようでは、何も出てこないだろうというのが僕の考え方です」(p.228)

 



《無音の音》

「優れたパーカッショニストは、一番大事な音を叩かない。それはすごく大事なことです」(p.36)

 



インターフェイス

「僕は登場人物の誰のことも、そんなに深くは書き込んでないような気がするんです。男性であれ女性であれ、その人物がどのように世界と関わっているかということ、つまりそのインターフェイス(接面)みたいなものが主に問題になってくるのであって、その存在自体の意味とか、重みとか、方向性とか、そういうものはむしろ描き過ぎないように意識しています」(p.247)

 



《ものを書く》

「ものを書くっていうのは、とにかくこっちにものごとを呼び寄せることだから。イタコやなんかと同じで、集中していると、いろんなものがこっちの身体にぴたぴたくっついてくるんです。磁石が鉄片を集めるみたいに。その磁力=集中力をどれだけ持続できるかというのが勝負になります」(p.26)

 



《影を見る》

「僕自身はこうしてリアリスティックに現実の世界で生きてはいるけれど、その地下には僕の影が潜んでいて、それが小説を書いているときにずるずると這い上ってきて、世間一般が考えるリアリティみたいなのを押しのけていきます。そういう作業の中に、僕は自分の影というものを見ようとしているんじゃないかな。ただ、それは小説家である僕にとっては、物語を語るという作業の中で可能なことなんだけど、普通の人にはなかなかできないことかもしれない。つまり僕は物語を書くことによって、多くの人のためにその作業を代行しているのかもしれない」(p.260-261)

 



《物語と解釈》

「頭で解釈できるようなものは書いたってしょうがないじゃないですか。物語というのは、解釈できないからこそ物語になるんであって、これはこういう意味があると思う、って作者がいちいちパッケージをほどいていたら、そんなの面白くもなんともない。読者はガッカリしちゃいます。作者にもよくわかってないからこそ、読者一人ひとりの中で意味が自由に膨らんでいくんだと僕はいつも思っている」(p.116)

 



《くぐらせる》

「自我レベル、地上意識レベルでのボイスの呼応というのはだいたいにおいて浅いものです。でも一旦地下に潜って、また出てきたものっていうのは、一見同じように見えても、倍音の深さが違うんです。一回無意識の層をくぐらせて出てきたマテリアルは、前とは違うものになっている」(p.39)

 



《無意識に訴える》

「あらゆる国のあらゆる民族の神話には、たくさんの共通するものがあります。そういう神話性が各民族の集合的無意識として、時代を超えて脈打っていて、それがまた地域を越えて世界中でつながっている。だから、僕の小説がいろんな国で読まれているとしたら、それはそういう人々の地下部分にあたる意識に、物語がダイレクトに訴えかけるところがあるからじゃないかなと考えています」(p.108)

 



《物語の善性》

「物語の「善性」の根拠は何かというと、要するに歴史の重みなんです。もう何万年も前から人が洞窟の中で語り継いできた物語、神話、そういうものが僕らの中にいまだに継続してあるわけです。それが「善き物語」の土壌であり、基盤であり、健全な重みになっている。僕らは、それを信頼し信用しなくちゃいけない」(p.337)

 

【2235冊目】圓生和之『一番やさしい地方公務員制度の本』

 

一番やさしい地方公務員制度の本 (一番やさしいシリーズ)
 

 

「どうして公務員はこんなにも人事異動が気になるのでしょうか。筆者は、遅い選抜のもと、仕事で報いる方式の人事異動がそうさせるのではないかと考えています」(p.66)

 

著者は兵庫県の人事課に10年在籍していた方とのこと。そのためか、本書は単なる条文の引き写しにとどまらず、制度の沿革から日本の公務員制度の特徴、あるべき地方公務員の姿までを幅広く描き出す一冊になっている。

特に、上で引用した「遅い選抜」「仕事で報いる」という説明には深く納得するものがあった。民間と比べて、日本の地方公務員は一般に出世が遅い。同期間で最初に「昇進する人としない人」の差がつくのは、アメリカやドイツでは3~4年。日本でも、スーパーなど大卒を多く採用する業種では同じくらい。平均でも7~8年で差がついてくる。それに対して、ある県の公務員の場合、これが14年くらいになるという。そこまで遅くなくとも、入庁10年目くらいまでは、同期横並びでヒラ職員、という自治体は多いのではないだろうか。

なぜこうした「遅い選抜」が行われるのか。著者は、地方公務員の人事異動の特徴が「仕事で報いる人事」であることがその理由であると指摘する。優秀な職員、高い業績を上げた職員に対して、民間では給与アップや昇進で報いるが、地方公務員は「人事異動の結果」で報いる。良い仕事ができると評価された職員は、次の異動先ではさらに難度の高い仕事が与えられ、その積み重ねが人事評価につながってくるのである。

人事異動については、人事経済学にいう「絶対的優位性」も面白い。これは、例えばAさんのあげうる成果が企画10、広報8で、Bさんは企画9、広報6だとする。この場合、AさんとBさん、どちらを企画部門、どちらを広報部門に配属するのが、組織全体として最適か、というような場面で登場する考え方である。

Aさんにしてみれば、自分が企画部門に行った方が高い成果があげられるのだから、自分が企画に配属されるべきだ、と思うだろう。だが、組織全体のパフォーマンスという点では、Aさんを広報、Bさんを企画に配属したほうがベターなのだ。その場合、成果を合計すると8(A:広報)+9(B:企画)=17となる。一方、Aさんを企画に配属すると、10(A:企画)+6(B:広報)=16となり、前者のほうが全体の成果は高くなるからである。

う~ん。こういう「人事ネタ」が面白く思えるのは、やはり私も人事異動が気になってしょうがない地方公務員だからなのだろうか。人事経済学の古典という『人事と組織の経済学』も読んでみようかな。

 

人事と組織の経済学

人事と組織の経済学