自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【2233冊目】ユルゲン・トーデンヘーファー『「イスラム国」の内部へ』

 

「イスラム国」の内部へ:悪夢の10日間

「イスラム国」の内部へ:悪夢の10日間

 

 


「あなたの言うことは正しい。俺たちISは残忍なことをしている。だが、ISは公にそれをするが、あなたたち西側はそれを密かにやる。ISはイラク人を三万人ぐらい殺したかもしれないが、ブッシュは五〇万人を殺してるんだ」(p.292)

 



これは驚くべき本である。本書は、ドイツ人ジャーナリストの著者が、10日間にわたりIS(イスラム国)の内部に入り、取材を敢行した記録なのだ。

もちろん、西側諸国では初めての「内部取材」である。そのために著者は、ISに加わったドイツ人と長時間のチャットやスカイプ通話を行い、信頼を得て仲介を依頼。ISの最高指導者(カリフ)から入国許可と安全を保障する書面を得るのである。

そしていよいよ、緊張に満ちた10日間が始まる。常に死と隣り合わせの日々。だが、著者は身の安全のために取材の手を緩めることはない。宗教上の侮辱や冒涜をしないよう細心の注意を払いながら、同時にISの主張の欠陥やコーランとの矛盾を鋭く突く質問をガンガン繰り出すのだ。その手厳しさには、読んでいるこっちのほうがハラハラしてしまう。

一方で、著者は西側諸国のやってきたことにも疑問を呈する。本書の第2章ではこのように書いている。「戦争は富裕者がやるテロであり、テロは貧者がやる戦争である。このふたつの質的な違いを私はこれまでに見出したことはない」(p.31)

今もまだ、戦争は続き、テロも続いている。そのどちらが「正しい」ということもない、悪と悪との不毛な闘争。そこから抜け出すためのヒントを、著者は10日間の過酷な経験をもとに本書で示している。それはムスリムの融和であり、西側諸国が、いい加減に自国のエゴイズムと利権からアラブに手を出すのをやめることである。

本書はISに同情的な本ではないが、少なくとも西側メディアのゆがんだレンズから自由になり、両者のことを「素」で見て判断することを可能にしてくれる一冊である。その主張は、冒頭に掲げた引用のセリフに尽きる。著者に同行した、ラッカに住むモロッコ系ドイツ人アブー・ロートの言葉である。そしておそらくは、これがISの「内側」にいる多くの人々の主張なのだ。

【2232冊目】田中拓道『福祉政治史』

 

福祉政治史: 格差に抗するデモクラシー

福祉政治史: 格差に抗するデモクラシー

 

 

「日本の問題点は、行きすぎた新自由主義的改革によって富裕層と貧困層への二極化が生じたということではなく、失業・低所得層への行きすぎた保護や再分配が行われているということでもない。他国に比べて水準の低い公的福祉が維持されたまま、「インサイダー/アウトサイダーの分断」が顕在化し、それへの実質的な対応が進んでこなかった、という点にある」(p.272)

 



アメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、スウェーデン、日本。6か国の福祉をめぐる政策と政治の変遷をたどり、日本の未来に向けた提言を行う一冊。

戦後の先進国6か国は、それぞれに異なる事情を抱えてはいたものの、そこには共通する時代的な背景がある。著者によればそれは「ブレトンウッズ体制」と「フォーディズム」であるという。特にフォーディズムに代表される大量生産社会は、男性優位の雇用環境を生み出し、熟練労働者からなる労働組合と使用者による労使協調がなされた。

ところが時代が変わり、先進国は生産拠点を途上国に移行、自国内の主産業はサービス業や小売業、福祉・医療関係が主流になっていった。そんな中、各国はそれまでの福祉制度を大きく見直していく。また、少子高齢化も各国で進行したが、これも従来の福祉システムに大きな変更を迫るものであった。

こうした変化に各国がどう対応したか、そして日本はどこで「失敗」したのかを検証したのが本書である。具体的には、日本は公的福祉の比重が低く、その分を担ってきたのが、所属する企業の福利厚生であった。戦後の日本人は、中心となる「男性稼ぎ手」が正社員となって企業に所属し、妻は専業主婦となって家事や育児に専念し(ここで家庭もまた、子育てや介護などの機能を担うことになる)、企業がほぼ丸抱えでその面倒を見たのであった。政権与党の自民党は、そこからこぼれていく自営業者や中小零細企業、農家などに特化して、手厚い保護を行えばよかった。

ところがこのモデルは、先ほど挙げたフォーディズムの解体によって事実上時代遅れのものになっていった。製造業から小売・サービス・ケア産業が国の産業の中心となり、これらは労働集約型の、いわば「女性向け」の仕事である。普通に考えれば、ここで「男性稼ぎ手中心モデル」から「夫婦共稼ぎモデル」への移行を想定し、それに見合った社会保障制度を構築する、というのが政治の発想というものだろう。事実、多くの国ではそのような政策のシフトチェンジが行われた。取り残されたのは、そう、日本である。

まあ、これくらいにしておこう。他国の政策だってカンペキではないし、人口規模や社会、文化が異なるのだから、同じ政策を採用すればよいというものでもない。だが、とにかくこれほどまでに財政赤字が積み上がり、これほどまでに少子化が進行し、これほどまでに所得再分配に失敗したのは、先進国では日本だけなのだ(個人的には、そもそも日本が「先進国」なのかどうか、最近は疑問に思っている)。本書の210ページには驚くべき表が載っている。年齢別に、再分配後の所得のジニ係数(所得格差を表す係数)を調べ、1979年から10年ごとに並べたものなのだが、1979年から2009年までの30年間で、65歳以上の高齢者のジニ係数は減っている(つまり所得格差が解消しつつある)。一方、39歳未満のジニ係数は、同じ30年間で増えているのである。これはいったい、どういうことか。

「全般的に福祉が縮減されているのではなく、中高年層は相対的に保護されている。(略)若年層や女性といった再生産を担う層のあいだに格差が広がることで、少子化にも歯止めがかからなくなった」(p.210)

 
最後に、ちょっと気になったことを1つ。著者はリバタニアリズムを権威主義との対立軸として取り上げ「物質的な安定よりも政治参加、ジェンダー平等、ライフスタイルの自己決定、エコロジーなどを重視する考え方」(p.124)としている。だが、リバタニアリズムを事典で調べると、こんなふうに書いてあるのである。

福祉国家のはらむ集産主義的傾向(→コレクティビズム)に強い警戒を示し,国家の干渉に対して個人の不可侵の権利を擁護する政治思想」(ブリタニカ国際大百科事典)

 

 

「個人の自由権を絶対的に重視し、それに制約を加える国家の役割を最小限度にとどめようとする自由至上主義の思想」(知恵蔵)

 

決定的に矛盾しているわけではないが・・・・・・むしろ著者のいうリバタニアリズムは、リベラリズムなのではないかという気がする。ちなみに「リベラリズムが政府による自由市場への介入と所得の再配分を推進し、社会的平等を重視する福祉国家の制度的基礎を提供したのに対し、1970年代以降の米国において、個人権的自由権を絶対的に擁護する立場から、国家の権力と機能を制限し、「最小国家」の創設を求める思想としてリバタリアニズムが登場してきた」(知恵蔵)とのことで、国家の干渉を最小化するのがリバタニアリズム。となると、著者のいう「政治参加」「エコロジー」などは、最小国家論とは矛盾しないのだろうか?


【2231冊目】『池澤夏樹個人編集 日本文学全集10 能・狂言/説経節/曾根崎心中/女殺油地獄/菅原伝授手習鑑/義経千本桜/仮名手本忠臣蔵』

 

 
タイトルは長いが、本も分厚い。解題・解説も入れると842ページである。扱われているのは、能、狂言説経節浄瑠璃。共通点は「声が聞こえるテクスト」であることだ。

それを意識してか、現代語訳もリズミカルなものが目立つ。電車の中で読んだので音読はしなかったが、声に出して読むと、また違った味わいがありそうだ。そう思っていたら、「曾根崎心中」を訳したいとうせいこうが、あとがきで面白いことを書いていた。近松門左衛門の作品は、単純な七五調ではなく、「字余り字足らず」が多いという。それも、簡単に七五調にできるようなところが破調になっているというのだ。明らかにワザとやっているのである。

その理由も興味深い。こうした拍子の崩れは、起源をたどると観阿弥世阿弥に、さらには白拍子(平安末期~鎌倉時代に流行した歌舞)に至るという。ということは、そこには白拍子から(おそらく猿楽・申楽を経て)能や狂言、そして浄瑠璃にまで続く「オラリティ(声の文化)の系譜」があるということなのだろう。

本書の現代語訳にはいろいろ賛否があるようだが、私は特に違和感なく読めた。というより、物語のパワーに引きずりこまれて、訳文を気にするどころではなかった、といったほうが正確だ。特に近松の二編「曾根崎心中」「女殺油地獄」の迫力は、圧倒的。わがままを言えば、ここに「国姓爺合戦」も入れてほしかったし、説経節も「かるかや」だけではなく、せめて「小栗判官」「しんとく丸」も読みたかった(やっぱり能・狂言説経節浄瑠璃であわせて一冊というのは、かなり窮屈だったのではないか)。

「菅原伝授手習鑑」「義経千本桜」「仮名手本忠臣蔵」は、浄瑠璃や歌舞伎では場面ごとの上演が多いため、全体を通して物語として筋書きをつかめたのがよかった(解説書などの「あらすじ」では、どうしても「知識」としてしか物語が入ってこないのだ)。それにしても、一場面だけ見るとあまり感じないが、こんなに複雑で多層的な物語だったんですねえ。

【2230冊目】ウンベルト・マトゥラーナ&フランシスコ・バレーラ『知恵の樹』

 

知恵の樹―生きている世界はどのようにして生まれるのか (ちくま学芸文庫)

知恵の樹―生きている世界はどのようにして生まれるのか (ちくま学芸文庫)

 

 

「すべての行為は認識であり、すべての認識は行為である」
「いわれたことのすべてには、それをいった誰かがいる」(p.29)

 



引用したのは、本書の冒頭に掲げられたテーゼである。何かを「知る」という場合の「知られるもの」は、そのままの形で存在しているわけではない。むしろ「知る」という行為そのものが、「知られるもの」を形成している、ともいえる。本書のクライマックス、第10章「知恵の樹」では、このようにも書かれている。

「認識についての認識は、強制するのだ。それは確実さ[確信]の誘惑にたいしてつねに警戒的な態度をとるように、ぼくらを強制する。確実さは真実の証拠ではないのだと、認めることを強制する。みんなが見ている世界は、唯一の[定冠詞つきの]世界なのではなく、ぼくらがほかの人々とともに生起させているひとつの世界でしかないのだと、はっきりと理解することを強制する。世界とは、ただぼくらが異なった生き方をするときにのみ異なったものとなるのだということをわかるようにと、ぼくらを強制する(後略)」(p.296)

 



すなわち、本書は世界の「見方」についての本であり、同時に世界の「生成の仕方」についての本でもある。本書は、確実であると思っていた世界がまったく不確実なものであることを告知する一冊であり、「認識」と「行為」を連結することでそうした世界の見方から脱出するための本でもある。

そのために本書は、いったん生命の成り立ちと再生産の仕組みに踏み込み、そこから個体発生と系統発生、認識行動、文化や社会のありよう、そして「言葉」というものの本質へと論を進めていく。その中で登場するキー・コンセプトが「オートポイエーシス」である。実際、本書は一般には「オートポイエーシスの入門書」といわれることが多い。

オートポイエーシスとは何か。生命とは本質的には自律的(オート)な存在であり、完結したシステムであって、その組織が組織自身を再生産する。それは「生物を自律的システムとしているメカニズム」(p.56)なのである。

では、この「オートポイエーシス」という生物の特質が、どのようにして冒頭のテーゼに結びつくのか・・・・・・というところが、実は読んでいて筋道をつかみかねたところであった。これは私自身の読み方の問題だと思うのだが、本書は決して厚い本ではないのだが、議論があまりにも多様に展開しており、本筋をつかむのが難しかった。その意味で今回、私はこの本をちゃんと読めたとは到底言えない。いずれまた、丁寧に再読したい一冊である。

【2229冊目】出口治明『「働き方」の教科書』

 

「働き方」の教科書: 人生と仕事とお金の基本 (新潮文庫)

「働き方」の教科書: 人生と仕事とお金の基本 (新潮文庫)

 

 

「五〇代は無敵です」(p.13)

 


本書の冒頭で、著者はこう言い切る。なぜか。五〇歳ともなれば、自分の得意分野や能力の限界も、子ども(いれば)の行く末もだいたい見えている。ビジネスで培ったスキルや人脈も相当なもの(のはず)だ。ちなみに、貯金もそれなりにある(はず)。つまり五〇代とは、人生のリスクをコストに変えることができる年代なのである。

だからこそ、著者は「五〇代こそ起業に最適」だという。これは言葉を変えれば、起業もできないような五〇歳になってしまったら、今まで何をやってきたのか、ということになってしまうのだが、本書はそのことを具体的なロードマップとして、年代ごとに示してくれている。

二〇代は四の五の言わず、仕事の基本をきっちり身につける。三〇代から四〇代は、部下をもつ人も多いだろうから、部下を育て、マネジメントする方法を身につける。面白いのは「四〇代になったら得意分野を捨てる」という言葉。これはつまり、プレイヤーからマネージャーへと意識を転換しろ、ということだ。考えてみれば、私は今、ちょうどここの段階。自分でやっていた時には見えていた細部が、立場が変わって見えなくなる。そんな不安を、私もちょうど抱えていた。

本書を読んで感じたのは、仕事の細部が分からなくなることは当然として、「仕事ではなく、人を見る」のが重要であるということだ。部下の仕事のやり方や考え方、能力を通して、その仕事を見ていくというイメージである。そうしないと、身が持たない。組織が大きくなり、出世すればするほど、それはあてはまることなのだろう。自分がそっちの方に進むかどうかはともかくとして。

仕事は自分の人生の時間の、わずか3割だそうである。人生のすべてを捧げるには少ないが、どうでもよいと言い切れるほど少なくはない。だったら、仕事こそ自分の人生の彩りと考えて、目いっぱい楽しんでいけばよいのではなかろうか。組織の中でそれが難しそうなら、転職するか、実力と貯金がたまるのを待って起業すればよい。特に地方公務員は、起業なんて他人事と思っている人も多いだろうが、いやいや、案外チャンスは身近なところに転がっているものなのである。