自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【2231冊目】『池澤夏樹個人編集 日本文学全集10 能・狂言/説経節/曾根崎心中/女殺油地獄/菅原伝授手習鑑/義経千本桜/仮名手本忠臣蔵』

 

 
タイトルは長いが、本も分厚い。解題・解説も入れると842ページである。扱われているのは、能、狂言説経節浄瑠璃。共通点は「声が聞こえるテクスト」であることだ。

それを意識してか、現代語訳もリズミカルなものが目立つ。電車の中で読んだので音読はしなかったが、声に出して読むと、また違った味わいがありそうだ。そう思っていたら、「曾根崎心中」を訳したいとうせいこうが、あとがきで面白いことを書いていた。近松門左衛門の作品は、単純な七五調ではなく、「字余り字足らず」が多いという。それも、簡単に七五調にできるようなところが破調になっているというのだ。明らかにワザとやっているのである。

その理由も興味深い。こうした拍子の崩れは、起源をたどると観阿弥世阿弥に、さらには白拍子(平安末期~鎌倉時代に流行した歌舞)に至るという。ということは、そこには白拍子から(おそらく猿楽・申楽を経て)能や狂言、そして浄瑠璃にまで続く「オラリティ(声の文化)の系譜」があるということなのだろう。

本書の現代語訳にはいろいろ賛否があるようだが、私は特に違和感なく読めた。というより、物語のパワーに引きずりこまれて、訳文を気にするどころではなかった、といったほうが正確だ。特に近松の二編「曾根崎心中」「女殺油地獄」の迫力は、圧倒的。わがままを言えば、ここに「国姓爺合戦」も入れてほしかったし、説経節も「かるかや」だけではなく、せめて「小栗判官」「しんとく丸」も読みたかった(やっぱり能・狂言説経節浄瑠璃であわせて一冊というのは、かなり窮屈だったのではないか)。

「菅原伝授手習鑑」「義経千本桜」「仮名手本忠臣蔵」は、浄瑠璃や歌舞伎では場面ごとの上演が多いため、全体を通して物語として筋書きをつかめたのがよかった(解説書などの「あらすじ」では、どうしても「知識」としてしか物語が入ってこないのだ)。それにしても、一場面だけ見るとあまり感じないが、こんなに複雑で多層的な物語だったんですねえ。

【2230冊目】ウンベルト・マトゥラーナ&フランシスコ・バレーラ『知恵の樹』

 

知恵の樹―生きている世界はどのようにして生まれるのか (ちくま学芸文庫)

知恵の樹―生きている世界はどのようにして生まれるのか (ちくま学芸文庫)

 

 

「すべての行為は認識であり、すべての認識は行為である」
「いわれたことのすべてには、それをいった誰かがいる」(p.29)

 



引用したのは、本書の冒頭に掲げられたテーゼである。何かを「知る」という場合の「知られるもの」は、そのままの形で存在しているわけではない。むしろ「知る」という行為そのものが、「知られるもの」を形成している、ともいえる。本書のクライマックス、第10章「知恵の樹」では、このようにも書かれている。

「認識についての認識は、強制するのだ。それは確実さ[確信]の誘惑にたいしてつねに警戒的な態度をとるように、ぼくらを強制する。確実さは真実の証拠ではないのだと、認めることを強制する。みんなが見ている世界は、唯一の[定冠詞つきの]世界なのではなく、ぼくらがほかの人々とともに生起させているひとつの世界でしかないのだと、はっきりと理解することを強制する。世界とは、ただぼくらが異なった生き方をするときにのみ異なったものとなるのだということをわかるようにと、ぼくらを強制する(後略)」(p.296)

 



すなわち、本書は世界の「見方」についての本であり、同時に世界の「生成の仕方」についての本でもある。本書は、確実であると思っていた世界がまったく不確実なものであることを告知する一冊であり、「認識」と「行為」を連結することでそうした世界の見方から脱出するための本でもある。

そのために本書は、いったん生命の成り立ちと再生産の仕組みに踏み込み、そこから個体発生と系統発生、認識行動、文化や社会のありよう、そして「言葉」というものの本質へと論を進めていく。その中で登場するキー・コンセプトが「オートポイエーシス」である。実際、本書は一般には「オートポイエーシスの入門書」といわれることが多い。

オートポイエーシスとは何か。生命とは本質的には自律的(オート)な存在であり、完結したシステムであって、その組織が組織自身を再生産する。それは「生物を自律的システムとしているメカニズム」(p.56)なのである。

では、この「オートポイエーシス」という生物の特質が、どのようにして冒頭のテーゼに結びつくのか・・・・・・というところが、実は読んでいて筋道をつかみかねたところであった。これは私自身の読み方の問題だと思うのだが、本書は決して厚い本ではないのだが、議論があまりにも多様に展開しており、本筋をつかむのが難しかった。その意味で今回、私はこの本をちゃんと読めたとは到底言えない。いずれまた、丁寧に再読したい一冊である。

【2229冊目】出口治明『「働き方」の教科書』

 

「働き方」の教科書: 人生と仕事とお金の基本 (新潮文庫)

「働き方」の教科書: 人生と仕事とお金の基本 (新潮文庫)

 

 

「五〇代は無敵です」(p.13)

 


本書の冒頭で、著者はこう言い切る。なぜか。五〇歳ともなれば、自分の得意分野や能力の限界も、子ども(いれば)の行く末もだいたい見えている。ビジネスで培ったスキルや人脈も相当なもの(のはず)だ。ちなみに、貯金もそれなりにある(はず)。つまり五〇代とは、人生のリスクをコストに変えることができる年代なのである。

だからこそ、著者は「五〇代こそ起業に最適」だという。これは言葉を変えれば、起業もできないような五〇歳になってしまったら、今まで何をやってきたのか、ということになってしまうのだが、本書はそのことを具体的なロードマップとして、年代ごとに示してくれている。

二〇代は四の五の言わず、仕事の基本をきっちり身につける。三〇代から四〇代は、部下をもつ人も多いだろうから、部下を育て、マネジメントする方法を身につける。面白いのは「四〇代になったら得意分野を捨てる」という言葉。これはつまり、プレイヤーからマネージャーへと意識を転換しろ、ということだ。考えてみれば、私は今、ちょうどここの段階。自分でやっていた時には見えていた細部が、立場が変わって見えなくなる。そんな不安を、私もちょうど抱えていた。

本書を読んで感じたのは、仕事の細部が分からなくなることは当然として、「仕事ではなく、人を見る」のが重要であるということだ。部下の仕事のやり方や考え方、能力を通して、その仕事を見ていくというイメージである。そうしないと、身が持たない。組織が大きくなり、出世すればするほど、それはあてはまることなのだろう。自分がそっちの方に進むかどうかはともかくとして。

仕事は自分の人生の時間の、わずか3割だそうである。人生のすべてを捧げるには少ないが、どうでもよいと言い切れるほど少なくはない。だったら、仕事こそ自分の人生の彩りと考えて、目いっぱい楽しんでいけばよいのではなかろうか。組織の中でそれが難しそうなら、転職するか、実力と貯金がたまるのを待って起業すればよい。特に地方公務員は、起業なんて他人事と思っている人も多いだろうが、いやいや、案外チャンスは身近なところに転がっているものなのである。

【2228冊目】深井智朗『プロテスタンティズム』

 

 



「ルターの宗教改革は、この時代に突然起こった、唯一の教会改革の運動でも、ひとりの宗教的天才による、新しい宗教運動のはじまりでもなかった。それはすでに数世紀前からはじまっていたさまざまな教会改革運動、正確には再形成運動の一つであった。しかし、この時代の社会の制度疲労が生み出したいくつものほころびや亀裂によって崩壊寸前であった堤防を意図せざる仕方で破壊してしまったという点で決定的であった。時代が変革を求めていたとも言えよう」(p.90)

 

第1に・・・宗教改革(Reformation)は「リフォーム」だった。ルターはカトリックに代わる新たな宗派を生み出そうとしたのではなく、既存の教会制度の壊れかかった部分を「修繕」しようとしたのである。

第2に・・・ルターは聖書をドイツ語訳し、一般の人々に「解放」した。そのため、聖書の解釈が読む人ごとに異なるようになり、宗派が四分五裂した。カトリックでいうローマ教皇のような中心部が、プロテスタントにはない。

第3に・・・ルターの運動は宗教を超えて政治化した。それはルターが望んだことではなかったかもしれないが、結果的にはルターを庇護する勢力を生み出し、改革運動を生き長らえさせた。断罪され、火あぶりになったウィクリフやフスとルターが違うのは、その点だ。

第4に・・・果てしなく分裂するプロテスタントは、結果としてどんどん先鋭化し、過激化した。政治に庇護された旧プロテスタントたちは保守化して国家とくっつき、国家主義的になった。一方、先鋭化したプロテスタントたちはリベラリズムの源流になった。前者はドイツ、後者はアメリカの近代をかたちづくった。

第5に・・・要するに、プロテスタンティズムを抜きにしてヨーロッパやアメリカを理解することはできない。彼らの世界観、社会観、国家間には、宗教が抜きがたく絡みついているのである。

【2227冊目】村瀬嘉代子・津川律子編『電話相談の考え方とその実践』

 

電話相談の考え方とその実践

電話相談の考え方とその実践

 

 



「原則は一回性の出会いであることを自覚して、密度高い意味ある時間であるように感性と思考力を集中する必要があること、基本的に相手を人として遇する、つまりは共感的傾聴の態度が基底に求められることは、一般相談、心理専門相談の別を問わない」(p.16)

 



ツールの発明は、新たな需要を生み出す。電話がない時代、相談と言えば面接か、せいぜい手紙しか方法がなかった。だが電話が出現したことで、「電話相談」という方法が誕生した。そして今や「メール相談」が行われるまでになっている。

本書は「いのちの電話」や災害被災者向けの電話相談、こども相談室の電話相談など、どちらかというと電話相談プロパーの対応者向けに書かれている。だが、その内容は住民対応を行う自治体職員にも十分に応用できる。例えば住民の方から電話で「今から死にます」と言われたら? いつになっても終わらない身の上相談にどう対応する? 切るタイミングを間違えてクレームになってしまったら?

窓口での対応より、ひょっとしたら電話対応の方が神経をすり減らすかもしれないと、最近思うことがある。突然かかってくる。相手の顔が見えない。周囲には相手の声は聞こえないから、クレーム化していても周囲のヘルプが得られない。切らない限り会話が続く。

本書では電話相談の特徴として「かけ手主導」「即時性」「超地理性」「匿名性」「密室性」「一回性」「経済性」「隣人性」を挙げている。こう並べてみると、電話相談にもそれなりのメリットが多いことに気づく。特に緊急性の高い相談、対面相談が苦痛な人の相談、移動に支援が必要な人の相談等の場合、電話相談が望ましい(本書p.18)。

興味深い指摘もある。児童虐待のホットラインで電話相談を始めて驚いたのは、来所相談では少なかった「虐待をしている人からの電話」の多さだったという。上で挙げた特徴でいえば「即時性」「匿名性」が功を奏しているということだろうか。また「面接相談よりも電話相談のほうが、視覚情報が入らない分、コーラー(電話のかけ手)に関するイメージが過剰になり、勝手に逆転移が誘発されやすい」(p.78)との指摘もある。もっとも、ここでいっているのは、精神分析でいう逆転移とまではいかず「相手に対する感情が沸き起こってくる」程度の意味とのこと。電話のほうが、相手との心理的な距離が取りにくいということなのだろうか。

最後に、住民からの長電話に悩まされている人に実践的な目安をひとつ。「電話での悩みの話は20分話すとあとは同じことの繰り返しになるんです。その先をどう誘導してゆけるかは相談員の力量です」(p.165) 受容的に、共感的に、でもしっかりとプロとしての対応を行うにはどうすればよいか。そのための現場でのヒントが詰まった一冊である。