自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【2222冊目】赤松啓介『宗教と性の民俗学』

 

宗教と性の民俗学

宗教と性の民俗学

 

 

「深夜十一時ぐらいになって暗くなると、勤行につかれた人たちが後方とか、左右の横に寝具をとって休眠する。単独の人もあるが、男女で組の人も多い。組の人たちは性交をするが、別にかくすというほどのことはしない。(略)それほど男も女も気にしないで楽しんでいる」(p.83)

 

オコモリ(御籠り)の際のザコネ(雑魚寝)の風景である。祭りの夜、お参りして遅くなると、そのままみんなで雑魚寝する。そこでセックスするといっても、周りも寝ている中なので、「抱き合って腹から下を合わすだけ」「ピストン運動はできないで、「ア、ウンの呼吸」に合わせてしめたり、ゆるめたり、ふくらませたり、ひっこめたりの緩急運動」ということになる。もっとも、バレないようにと思っていても、たいていはすぐわかってしまう。それでもそれほど互いに気にしない、あっけらかんとした性風俗の現場なのである。

「宗教」と「性」という、ある意味で対極とも思える要素が、民衆生活の中ではむしろ不可分一体でさえあったことを、本書は明らかにしてみせる。言い忘れたが、著者は在野の民俗学者としては筋金入り。そのフィールドワークはハンパではなく、本書を読む限りでは、どうも自分から宗教をおこして教祖をやっていたこともあるらしい。実際、「オガミヤ」「ウラナイヤ」の描写のリアリティたるや、自分でやっていなければ到底知り得ないようなことばかりなのだ。

とにかく学者面、インテリ面とこれほど縁のない学者も珍しく、民衆の中にすっかり溶け込んでしまうようなのである。もっとも、それくらいでないと、「性」についてこれほどあけすけに語ってくれるワケがない。その意味で、本書に書かれている「宗教」と「性」のディープな関係は、著者だからこそ聞き出すことができたものなのだ。

【2221冊目】野口裕二『ナラティヴ・アプローチ』

 

ナラティヴ・アプローチ

ナラティヴ・アプローチ

 

 

「われわれの生きる現実は様々なナラティヴによって成り立っており、ナラティヴによって組織化されている。ナラティヴ・アプローチはこうした認識から出発する」(p.11)

 



誰もが「物語」をもっている。物語というと大げさに聞こえるが、私たちがこれまでの人生の中から何かを意味づけようとすれば、そこにはすでに物語が生まれている。私たちはそれを「現実」「真実」と呼んでいるにすぎない。

ナラティヴ・アプローチは、こうしたナラティヴ(語り、物語)をナラティヴとして認識するところから始まる。ナラティブは生活上のあらゆる場面に存在する。家庭、職場、医療、福祉、裁判・・・・・・。本書はこうした場面ごとに、その場にあるナラティヴのありようを考察する一冊だ。

ナラティヴの効用については、第6章でシンプルにまとめられている。社会福祉領域のナラティヴ論とのことだが、ほかの領域にも通用する内容だろう。

(1)現実を相対化する
(2)問題を外在化する
(3)物語としての自己(自己定義)
(4)トポスとしてのコミュニティの重要性の強調
(5)当事者による専門職への批判

どれも重要なポイントだが、(5)は福祉に携わる者としてはギョッとする項目だ。誰もが自らの物語をもっている、というのがナラティヴ・アプローチの前提のひとつだが、そこから関わりがスタートする以上、医療も福祉も「当事者」が出発点にならなければならないのだ。「専門家」による出来合いの見方に当事者の物語を押し込めてしまうことの危険性は、いくら強調してもしすぎることはない。

だがそれは一方で、当事者の信念や確信を「物語」として外在化することにもつながる(上記(2))。当事者自身が、物語ることによって自分のナラティヴを客観視できるのも、ナラティヴ・アプローチの良いところだ。

リフレクティング・プロセスという試みも面白い。これは、当事者(例えば、ある家族)と面接を行う際に、「リフレクティング・チーム」というもうひとつのグループを用意するというものだ。家族と「リフレクティング・チーム」はマジックミラーで隔てられている。最初に面接者と家族が面接を行い、リフレクティング・チームはそれをマジックミラー越しに観察する。次にミラーを反転させ、リフレクティング・チームが観察した結果について会話し、家族はそれを観察するのである。

自分たちの「物語」を他の人々が語る。それを観察することで、セラピーが画期的に進展するという。第2章の著者はこれを「観察する観察者と観察される観察者の旋回」と表現する。まあ、ここに限らず、本書にはこういうわかったようなわからないような表現が頻出するのが欠点だ。そのため、正直いってイマイチわかりにくい本だった。ある程度の専門家をターゲットにしているのだろうが、医療や福祉の現場の関係者ほどナラティヴ・アプローチには関心が強いと思われるのだから、もう少し平易で具体的な書き方をしてほしかった。

【2220冊目】金城宗幸・荒木光『僕たちがやりました』

 

 

僕たちがやりました(1) (ヤンマガKCスペシャル)

僕たちがやりました(1) (ヤンマガKCスペシャル)

 

 


平凡な高校生のトビオ、マル、伊佐美と、OBの「パイセン」。ダラダラした平和な日常。だが、通う高校の隣にあるヤンキー高校に仕掛けたイタズラが、死人が出るような大事件になってしまい・・・・・・。

金でなんでも解決しようとするパイセン。無邪気な顔で平気で仲間を裏切るマル。非常時になるとむき出しになる、人間の醜悪なエゴイズム。事件の展開は最初から最後まで読み手の想像を裏切り続け、どうなることかと思わせ通しだったが、ついに全9巻が完結した。

読み終わって終わったのは、これって「罪と罰」だよね、ということ。いや、ドストエフスキーの『罪と罰』でもあるのだが、その奥にあるさらに冷厳な真実を、この漫画は突きつけてくる。それは「罪が赦されるとはどういうことか」ということだ。その意味ではマキューアンの『贖罪』もまた、本書のルーツかもしれない。

本書のラストは救いか、それとも絶望か。コミカルでスピーディな展開の奥にとんでもない地雷を仕込んだ、二重底仕立ての傑作クライム・サスペンス。

 

 

罪と罰〈上〉 (新潮文庫)

罪と罰〈上〉 (新潮文庫)

 

 

 

贖罪〈上〉 (新潮文庫)

贖罪〈上〉 (新潮文庫)

 

 

 

 

【2219冊目】酒井順子『こんなの、はじめて?』

 

こんなの、はじめて? (講談社文庫)

こんなの、はじめて? (講談社文庫)

 

 
本にもいろいろあって、正面からガッツリ取り組まなければならないラーメン二郎大盛ゼンマシのような本もあれば、気軽にサックリ読めるポテトチップスみたいな本もある。本書はその「ポテトチップス」のほうの一冊。ハードな読書が続くと、箸休めに手に取りたくなるようなエッセイ集だ。

とはいえ、こういうエッセイこそが、実は書くのはいちばん難しいのではないかと感じる。時事ネタを取り上げ(本書の初出は、2009年~2010年に「週刊現代」に掲載された)、面白おかしく書きながら、それが7年後、8年後の今読んでも楽しめるというのは、なかなかできることではない。ちなみに出てくるのは「民主党政権」「のりピー押尾学」「SMAP草なぎくん逮捕」など、何とも懐かしいネタばかり。今から7年前って、こんな感じだったんですね~。

それはともかく、本書を読んで感じたのは、時事ネタを取り上げていながら、著者がそこにどっぷりハマっていないこと。著者自身の視点やものの考え方のスタンスがはっきりしていて、時流や雰囲気でブレていないのだ。リアルタイムのエッセイなのに。

それでいてユーモア感覚を忘れず、文章はライトで読みやすく、さらりとまとまっている。ポテトチップスというと馬鹿にしたように思えるが、むしろこれは塩味が絶妙でいくらでも食べられる「かっぱえびせん」的エッセイというべきなのかもしれない。それにしても、2009年から2010年って、今から振り返って懐かしく思える程度には悪くない時代だったんですねえ。今の世の中を7年後に振り返ったら、はたして同じように思えるだろうか?

【2218冊目】荒井裕樹『障害と文学』

 

障害と文学―「しののめ」から「青い芝の会」へ

障害と文学―「しののめ」から「青い芝の会」へ

 

 



「似たような境遇にある者たちと個々の心情を綴り合うことは、単に仲間との関係性を構築するばかりではなく、独自のニーズを有する障害者としての自己形成を図り、社会における自己の役割や位置について模索することでもあったのである。このような綴り合う関係性の中で、日本の障害者運動の芽は温められてきたのである」(p.14-15)

 

タイトルをみて「文学における障害の描き方」が書かれているのかと思ったら、そうではなかった。本書が扱っているのは「障害者が綴る文学」。それも脳性麻痺者の花田春兆が主宰した「しののめ」と、やはり脳性麻痺者で日本の障害者運動を牽引した横田弘が所属した「青い芝の会」の2つだけがメインで扱われている。その意味で、タイトルはミスリーディングとまではいわないが、ちょっと広げすぎのような気がする。むしろ内容に即してタイトルをつけるなら「障害者運動と文学」だろうか。

それほどに、本書は主に戦後の障害者運動史が中心となっていて、文学はどちらかというとその軌跡を辿るにあたっての「補助線」あるいは「例示」に近い扱いになっている。だがそれは、ある意味では、障害当事者による文学が、障害者の置かれた状況を告発し、そのあるべき姿を描こうとしたものであった、ということでもある。


それは例えば、近現代の朝鮮文学や社会主義陣営下の東欧文学の多くが政治的状況と不即不離であったことや、黒人文学が黒人差別の告発にもなっていたことを思わせる。だが一方では、本書で取り上げられている「障害者による文学」は、少なくとも本書から読み取れる限りでは、たとえばハンセン病患者であった北条民雄や明石海人の文学ほどの洗練と高みにまでは、残念ながら到達しなかったようにも思われるのである。

むしろ本書でもっともスリリングだったのは、「安楽死」をめぐる熾烈な論争だった。そもそも障害者による文芸同人誌「しののめ」が安楽死を正面から取り上げて議論していることにギョッとした。中には、自己選択による安楽死を肯定する発言も少なくなかったという。一方、当然のことながら、外部の非当事者による安楽死肯定論に対しては、一様に激しく反発し、批判している。

こんなことが1960年代に議論されていたことに驚くが、だが考えてみれば、例えば出生前診断はこれとは無関係と言えるだろうか。生命の自己決定という問題に関して、私たちの認識はどれほど進んだだろうか。「障害と文学」をめぐる現状は、いったいどうなっているだろうか。