自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【2202冊目】坂口安吾『桜の森の満開の下・白痴』

 

桜の森の満開の下・白痴 他十二篇 (岩波文庫)

桜の森の満開の下・白痴 他十二篇 (岩波文庫)

 



「オレは茫然とヒメの顔を見つめた。冴えた無邪気な笑顔を。ツブラな澄みきった目を。そしてオレは放心した。このようにしているうちに順を追うてオレの耳が斬り落されるのをオレはみんな知っていたが、オレの目はヒメの顔を見つめたままどうすることもできなかったし、オレの心は目にこもる放心が全部であった。オレは耳をそぎ落されたのちも、ヒメをボンヤリ仰ぎ見ていた。(「夜長姫と耳男」より p.371)

 


15篇が収められている。個人的ベスト5を選ぶなら「風博士」「白痴」「桜の森の満開の下」「アンゴウ」そして「夜長姫と耳男」か。

「風博士」は以前ちくまのアンソロジーで読んだことがあったが、その突き抜け振りがサイコーだ。もっとこの手の作品があるのか、なかなか出会わない(やはりちくまのアンソロジーに入っていた「勉強記」くらいかな)。本書でもこの一作だけだ。

「白痴」は今読むと差別発言も差別思想も満載だが、そんな「白痴」の女を見下しつつも、どこかすべてを引き受けている伊沢という男が忘れがたい。「桜の森の満開の下」「夜長姫と耳男」はどちらも説話文学系だが、登場する女の「純粋な絶対悪」の造形がものすごい。山賊を夫として操り、首狩りをして集めた首で遊ぶ女。ヘビの生き血を飲み、平然と人の死を遊び、狂気と狂気のつばぜり合いを演じるヒメ。いずれもものすごい傑作だと思う。

「アンゴウ」は今回初読だったが、ちょっとした謎解きを仕込みつつ、安吾にはめずらしいハートウォーミングなラストがよかった。なんだ、こういう作品も書けるんですねえ。そういえば長編に『不連続殺人事件』なんてのもあったっけ。

【2201冊目】アレクサンダー・フォン・フンボルト『自然の諸相』

 

フンボルト 自然の諸相―熱帯自然の絵画的記述 (ちくま学芸文庫)

フンボルト 自然の諸相―熱帯自然の絵画的記述 (ちくま学芸文庫)

 

 

「自然を生きた全体として眺め、たんに分析的ではなく常に綜合をめざしていた点において、彼の自然研究はまさにゲーテ的である。また自然を認識対象としてだけではなく、それを美的に体験し芸術的に表現しようとした点でも、フンボルトゲーテ時代にふさわしい人文学的自然科学者であった」(p.170「訳注」)

 



博物学フンボルトの出発点となった、5年に及ぶ中南米探検のエッセンス。植物学、地質学、天文学歴史学民俗学……。今ならさまざまな学問分野で「縦割り」にされるであろう観察と考察の記録が、縦横に結びつき、未知の世界の実像を描き出す。

しかもその自然の描写が、並の文学作品が束になってもかなわない美しさなのだから、これはとんでもない紀行文であり、フィールドワークの精華なのである。

 

もちろん19世紀に書かれたものであるから、学問的な正確さにはいろいろ問題はあるだろう。しかし、それを差し引いても、この「知の総合芸術」は鑑賞の価値がある。かつて学問は一つだった。そして、そもそも世界は一つであるはずなのである。

【2200冊目】プラトン『パイドロス』

 

パイドロス (岩波文庫)

パイドロス (岩波文庫)

 

 

「実際には、われわれの身に起こる数々の善きものの中でも、その最も偉大なるものは、狂気を通じて生まれてくるのである」(p.52)

 


「君は私と付き合うべきだ。なぜなら、君は私を恋していないのだから」なんて突拍子もないことを言い出すリュシアス。その理由を聞いてみると「恋をすると、人は正気を失い、理性的な判断ができなくなる。そんなふうになるよりは、きちんと理性が働いている状態で、価値を認めた人と付き合うほうが良いから」。

典型的な詭弁だが、これで相手を言いくるめようとするのが弁論術だと、当時のソフィストたちは思っていたようだ。実際、本書の冒頭でリュシアスが展開する議論は、どこかおかしいのだが「どこが」おかしいのかよくわからない。だが、これに対するソクラテスの反論が、さらにとんでもない。なにしろ「恋は狂気かもしれないが、狂気が悪いとは限らないんじゃないか?」というのだから。

「美」と「恋」について語ったこの対話篇、読むと古代ギリシアの時代に書かれたとは思えないほど「きわどい」内容で驚かされる。中でも冒頭のフレーズが凄い。「狂気」と「逸脱」の堂々たる肯定。まるで岡本太郎である。だが、この自在な思考こそが、後世の堅苦しい中世神学の中で見失われてしまったギリシア哲学の本領なのだろう。

さらに議論(といってもほとんどソクラテスの一方的な論陣)は、弁論術全般に及び、有名なソフィスト批判が展開される。ここで感慨深いのは、ついに「哲学者」(愛知者=知を愛する人)というワーディングが登場するくだり。知っていましたか。ソクラテスは、「知者」という言葉を捨てて、その代わりに「愛知者」という言葉を選ぶのである。

「これを「知者」と呼ぶのは、パイドロス、どうもぼくには、大それたことのように思われるし、それにこの呼び名は、ただ神のみにふさわしいものであるように思える。むしろ、「愛知者」(哲学者)とか、あるいは何かこれに類した名で呼ぶほうが、そういう人にはもっとふさわしく、ぴったりするし、適切な調子を伝えるだろう」(p.144)

 


無知の知」を語ったソクラテスらしい、謙虚で真摯なセリフである。ちなみにソクラテス自身は著作をいっさい残さなかったのだが、そのあたりの事情をうかがわせるくだりがこの少し前に出てくるので、あわせて引用しておきたい。文字情報全盛で、何でも「ウィキペディア」で調べて知った気になり、人と人とが直接「知」を語り合うことがきわめて少ない現代社会にこそ、読み返されるべき言葉であろう(これが文字で書かれているのも、また「偉大なる自己矛盾」であるのだが)。

「彼らは、書いたものを信頼して、ものを思い出すのに、自分以外のものに彫りつけられたしるしによって外から思い出すようになり、自分で自分の力によって内から思い出すことをしないようになる(略)。じじつ、あなたが発明したのは、記憶の秘訣ではなく、想起の秘訣なのだ。また他方、あなたがこれを学ぶ人に与える知恵というのは、知恵の外見であって、真実の知恵ではない。すなわち、彼らはあなたのおかげで、親しく教えを受けなくてももの知りになるため、多くの場合ほんとうはなにも知らないでいながら、見かけだけは非常な博識家であると思われるようになるだろうし、また知者となる代りに知者であるといううぬぼれだけが発達するため、つき合いにくい人間となるだろう」(p.134~135)

 いやはや、耳が痛い。







【2199冊目】ジム・トンプスン『グリフターズ』

 

グリフターズ (扶桑社ミステリー)

グリフターズ (扶桑社ミステリー)

 

 



表の顔は歩合制のセールスマン。裏の顔は、小銭を稼ぐためちょっとした嘘をつき続ける「詐欺師(グリフター)」。そんな男ロイを14歳で産んだのが、リリイ。この物語の「裏の主人公」である。

その意味は、ラストになってはじめてわかる。そう来るか、と思わせ手は裏切る、二転三転のフィナーレ。救いのない男と救いのない女が繰り広げる、絶望のノワール・ダンス。

なお、本書は翻訳があまりうまくない。とはいえ、最近はこなれた訳が多いので、こういうぎくしゃくした直訳調に久々に出会うと、イライラする一方、懐かしさも感じてしまう。80年代のSFなんて、もっと意味不明の翻訳ばっかりだったのだ。

【2198冊目】星野道夫『グリズリー』

 

 

「彼はまず、グリズリーについて知るために数時間にわたって観察を続け、それからようやく撮影用の望遠レンズを取り出したのだった。こうしてグリズリーの母親と子どもの間に展開される感動的な情景、そして彼等の暮らしにおける印象的な場面をカメラに収めたのである」(p.3)

アラスカの大地を背景にひたすらグリズリー(ハイイログマ)を撮った、星野道夫の第一写真集。このコンパクトな写真集の完成に、著者は6年をかけたという。

その成果は、圧巻の一言。広大な雪原の真ん中にぽつりと浮かぶ、グリズリーの小さな黒い影。鮭を捕らえて食らう、獰猛であり、同時にとてつもなく美しい姿。文明の痕跡がまったくない、アラスカの自然と、その中のグリズリー。それだけで、すべてが完結している。自然には、いっさいの無駄がない。

クマは怖い? クマは可愛い? 私たちがすでに持っているクマに対するイメージを、この写真集は叶え、同時に裏切ってくる。人間がもっているイメージの安っぽさに対して、実際の彼らの存在感の、なんと圧倒的なことか。一枚として捨てるところのない、充実の処女写真集である。