自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【2199冊目】ジム・トンプスン『グリフターズ』

 

グリフターズ (扶桑社ミステリー)

グリフターズ (扶桑社ミステリー)

 

 



表の顔は歩合制のセールスマン。裏の顔は、小銭を稼ぐためちょっとした嘘をつき続ける「詐欺師(グリフター)」。そんな男ロイを14歳で産んだのが、リリイ。この物語の「裏の主人公」である。

その意味は、ラストになってはじめてわかる。そう来るか、と思わせ手は裏切る、二転三転のフィナーレ。救いのない男と救いのない女が繰り広げる、絶望のノワール・ダンス。

なお、本書は翻訳があまりうまくない。とはいえ、最近はこなれた訳が多いので、こういうぎくしゃくした直訳調に久々に出会うと、イライラする一方、懐かしさも感じてしまう。80年代のSFなんて、もっと意味不明の翻訳ばっかりだったのだ。

【2198冊目】星野道夫『グリズリー』

 

 

「彼はまず、グリズリーについて知るために数時間にわたって観察を続け、それからようやく撮影用の望遠レンズを取り出したのだった。こうしてグリズリーの母親と子どもの間に展開される感動的な情景、そして彼等の暮らしにおける印象的な場面をカメラに収めたのである」(p.3)

アラスカの大地を背景にひたすらグリズリー(ハイイログマ)を撮った、星野道夫の第一写真集。このコンパクトな写真集の完成に、著者は6年をかけたという。

その成果は、圧巻の一言。広大な雪原の真ん中にぽつりと浮かぶ、グリズリーの小さな黒い影。鮭を捕らえて食らう、獰猛であり、同時にとてつもなく美しい姿。文明の痕跡がまったくない、アラスカの自然と、その中のグリズリー。それだけで、すべてが完結している。自然には、いっさいの無駄がない。

クマは怖い? クマは可愛い? 私たちがすでに持っているクマに対するイメージを、この写真集は叶え、同時に裏切ってくる。人間がもっているイメージの安っぽさに対して、実際の彼らの存在感の、なんと圧倒的なことか。一枚として捨てるところのない、充実の処女写真集である。




【2197冊目】大浜啓吉『「法の支配」とは何か』

 

「法の支配」とは何か――行政法入門 (岩波新書)

「法の支配」とは何か――行政法入門 (岩波新書)

 

 

「法の支配」の根底にあるのは、「自由で平等な尊厳ある個人」と「社会」の観念です。「尊厳ある個人」を起点にして「社会」が構成され、「国家」は社会に生起する公共的問題を解決するために人為的に作られた機構にすぎません。(「はじめに」より)

 



法治主義」と「法の支配」って、どう違うのか、わかりますか。

法学や憲法を学ぶと、最初の方に出てくるトピックなのだが、案外これがわかりにくい。いや、「法治主義」はまだわかる。王様が勝手に税金を増やしたり国民を処罰したりしないように、「そういうことをするには法律の定めが必要です」としたのが法治主義だ。この場合、法律がどんなものであるかは問われない。法律という「形式」を取っているかどうかが重要なのだ。

これに対して「法の支配」は、冒頭の引用のとおり、一定の価値観を前提としている。何が正しいかをあらかじめ定めた上で、法律といえどもそうした「正しさ」に沿っていなければならないと考えるのだ。その背景にあるのは、アメリカ独立革命フランス革命で掲げられた、人間理性の尊重に基づく自由や平等の観念である。

 

本書の著者は、こうした観念を手放しで絶賛し、素晴らしいものと思っておられるようだ。だが、私のようなひねくれ者は、こうした「普遍的な正しさ」のようなものを掲げられると、かえってちょっと冷やかしたくなってしまう。いやいや、人間の理性って、そんなに信頼できるものだっただろうか。フランス革命があれほどの流血と粛清の嵐に終わったことを、この著者はどう考えるのだろう。フランス革命だけではない。宗教改革から共産主義革命まで、絶対的な正義の名のもとにどれほどの人命が奪われてきたことか。

だったら「法治主義」に戻って、どんな法律でもいいから法律で決まっていれば良しとすべきかというと、それも別の意味で危ういような気がする。結局、法律を作るのは時の政権なのだから、ロクでもない政府がロクでもない法律を作ったら、それを止めることはむずかしい。今のアメリカや日本の状況を見ていれば、そのことは肌感覚でわかるはずだ。

そんなことを考えながら本書を読んでいて、ふと気づいたのは、「法治主義」のほうがある意味理想主義的で現実離れしていて、「法の支配」のほうが、案外リアリスティックで地に足の着いた考え方なのではないか、ということだ。

どういうことかというと、「法治主義」は価値観ニュートラルで、少なくとも「法の支配」のような、特定の正義をごり押しするものではない。だが、それは現実にはたいへんリスキーな考え方であって、トンデモ政府のトンデモ法案を阻止できない。

だったら、あえて「普遍的な正義」らしきものを仮構しておいて、その枠をはみ出した法律を違憲無効としていったほうが、正義の押し付けにはなるものの、それ以上の被害を食い止めることはできる。毒をもって毒を制す、というか、正義Aをもって正義Bを制す、というか。「法の支配」とは、理想主義的でリベラルっぽい感じがするが、実はとても現実主義的なメソッドなのだ。たぶんこんな考え方、本書の著者とは真逆の結論だと思うのだが、こう考えることで、自分なりに「法の支配」の本質が腑に落ちたのであった。

【2196冊目】伊坂幸太郎『SOSの猿』

 

SOSの猿 (中公文庫)

SOSの猿 (中公文庫)

 

 

「分かる、と無条件に言い切ってしまうことは、分からないと開き直ることの裏返しでもあるんだ。そこには自分に対する疑いの目がない」(p.122)

 


上の引用は本書に出てくるイタリア人エクソシスト、ロレンツォの父親のもの。「自信満々に言い切る親には注意を払いなさい」というフレーズに続くものなのだが、う~ん、これ、よくわかる。

仕事でいろんなケースとその親に接していると、「親だからわが子のことは一番わかっている」と確信している人によく出会う。というか、ほとんどの親がそう思っていると言っても良い。それに、ひるがえって親としての自分を考えてみても、わが子のことは自分が一番よくわかっている、と言いたくなる。

だが、第三者の目から見ればどう考えても明らかなことが親にだけは見えていない、というケースを、仕事の上とはいえこれだけ見てくると、自分のわが子を見る目にもちょっと自信がなくなってくる。特に中学生にもなると、自分が見えていない側面の方が多いのではないか、と思えてくるのである。冒頭のセリフからすれば、それはむしろ「自分に対する疑いの目」が育ってきている、ということなのかもしれないが、そのことを認めたくない自分もまた、確かにいる。

一般的に敷衍すれば「無知の知」ということなのかもしれないが、それがいかに難しいことか。なぜなら、それは「知っている自分」に対して、常に疑いの目を向けるということなのだから。・・・・・・え、それより、この『SOSの猿』ってどんな本なのか、って? その答えは決まってるでしょ。「どんな本なのかは、よくわからない」のですよ。まあ、強いて言えば「エクソシスト西遊記」ということになるのかもしれないが・・・・・・余計わからない、ですよね?

【2195冊目】仲野徹『エピジェネティクス』

 

エピジェネティクス――新しい生命像をえがく (岩波新書)
 

 

「遺伝情報は、狭い意味では、ゲノムの塩基配列に書き込まれている。そして、学問分野としてのエピジェネティクスが注目するのは、そこにさらに上書きされた情報なのである」(p.22)

 



これを読んで、みなさんはピンとくるだろうか。それとも、なんじゃこりゃ、という感じ?

後者の方には、本書の「終章」で挙げられている喩えのほうがピンとくるだろうか。ゲノムを一冊の本だとする。遺伝情報はそこに書かれているテキストだ。だがそこには、「ここを読みなさい」とか「ここは読み飛ばしてください」と書かれた付箋が貼ってあったり、二重線で文字が消されていたりするとしよう。こうした「付箋」や「二重線」のような働きをいわば総称しているのが、エピジェネティクスなのである。

たとえばヒストン修飾という働きは、特定の遺伝情報を活性化したり、抑制したりする。あるいはDNAメチル化という働きは、塩基配列の中のシトシンをメチル化することで、遺伝情報を読めなくしてしまうのだ。

ポイントは、もともとの遺伝情報そのものが変わっているワケではない、というところ。本の喩えで言えば、書かれている文字は変わらないのだ。ところがそこにいろんな強調やら消除やらの「書き込み」「上書き」があることで、実際の「読まれ方」は大きく変わってくる。エピジェネティクスとは、こうした「促進」と「抑制」に関わる分野なのである。

正直、本書に書かれていることをすべてちゃんと理解しようとすると、けっこう大変だと思う。だがそれでも「そもそもエピジェネティクスとは何なのか」というコアの部分は、しっかりと伝わってくる。生命の「可変性」を遺伝情報の側から見ることのできる好著である。