自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【2186冊目】吉田敦彦『日本人の女神信仰』

 

日本人の女神信仰

日本人の女神信仰

 

 

「現在の人類の宗教と神話は明らかに、万物の母である尊い女神として神格化された大地を崇める」

 

 

本書の「あとがき」で著者はこう断言する。本書はその「証拠」となるさまざまな神話や信仰のありようを、日本神話との比較の中で明らかにする一冊だ。といっても、いろんな論稿が集められた本であって、必ずしも「女神信仰」をテーマとするものばかりではないので、念のため。

冒頭で取り上げられるのは、縄文時代の「柄鏡型住居」である。円形の「鏡」部分と、そこから伸びる「柄」の形をした住居の出入り口には、甕が埋められていることが多い。そして著者によれば、当時の人々はその甕のなかに、なんと「死産児」を入れて埋葬したのだという。

これって、いったいどういうことなのか。著者の分析では、そもそも「柄鏡型住居」そのものが母体をかたどっているという。「鏡」にあたる本体部分が胎内、柄の部分が産道だ。そしてこの建物は、普段の住居ではなく、おそらく儀式の場、祭場として使われていた。儀式に参加する人々は産道をくぐって母体に戻る=「出生」から「死」への逆行を行うのであって、儀式を経て外に出ることは、その逆に新たな生命を得て再生することであったのだ。したがって甕に入れられた死産児も、母体の入口に埋葬されることで、「体内(胎内)への戻り」が擬制されているということになるのである。

さらに日本神話を辿っていくと、「母」が生み出すのは、必ずしも「子」ばかりではないことに気づかされる。『古事記』に出てくるオホゲツヒメや『日本書紀』に出てくるウケモチという女神は、排泄物から食事を生み出して客人(スサノオツクヨミ)に提供する。そして、排泄物を食わせていたとして怒りを買って殺されると、そのバラバラになった身体からはさまざまな作物があらわれるのだ。

こうした思考のルーツを、著者は縄文時代土偶に見る。女神をかたどった土偶がたくさん作られたが、完全な形で見つかったものはほとんどないという。どの土偶も壊され、バラバラになった状態で発見されているのだ。この意味について著者は、オホゲツヒメやウケモチのように、バラバラになることで大地の恵みをもたらす女神のパワーが砕かれることで拡散され、実りをもたらしてきたのではないかとみる。そしてこの話を後代まで辿っていくと、なんとそれは山姥にまで行きつくというのである(殺された山姥の身体から穀物が取れたり、山姥の血で蕎麦の茎が赤く染まったりするのはその一例だ)。山姥とは、縄文時代の女神信仰から日本神話の女神たちにつらなる系譜の末裔だったのだ。


【2185冊目】宮本太郎『共生保障』

 

共生保障 〈支え合い〉の戦略 (岩波新書)

共生保障 〈支え合い〉の戦略 (岩波新書)

 



共生」がキーワードになっているが、内容としては前著『生活保障』の延長線上にある一冊だ。制度疲労状態となっている日本の社会保障や雇用制度を検証しつつ、「地域での支え合い」の事例をヒントに、あるべき社会保障の仕組みを構想する。

支え合いと言っても、多くの制度や社会の現状をみると「支える側」と「支えられる側」が分断されている。このことが本書全体を貫く問題意識となっている。住宅政策でいえば、一方の「持ち家中心主義」と、もう一方の「低所得者向けの住宅供給」。社会保障では、企業が福利厚生を担う一方、その恩恵を受けられない場合は一挙に生活保護になってしまう。さまざまな政策が両極に偏り過ぎていて、中間がすっぽり抜けている。

本書はその「中間」を考える一冊といえる。ポイントは「支える側」と「支えられる側」を分断せず、相互に支え合う仕組みを作ること。そして、「支え合い」に丸投げするのではなく、「支え合いを支える」ための仕組みを作っていくことだ。

本書にはさまざまな地域の事例が紹介されている。だが、著者自身も書いているとおり、それがそのままこの国を救う処方箋になるとは限らない。地域の政策はあくまで地域のオーダーメイドであり、単純に応用すれば済むというものではないのだ。国がなすべきことは、従来の縦割り型の補助金制度ではなく地域の創意工夫を財政面から柔軟にバックアップするための制度構築であり(これは主に官庁の役割)、そしてやはり、社会保障を支えるための税源確保として「増税」に踏み切る覚悟であろう(これは政治の役割)。

だが、増税がうまくいかず社会保障制度が壊れかかっている一因は、増税を唱える政治家や政党が選挙に落ちることが当たり前になってしまっている現状にあることも忘れてはならない。民主主義に良い点があるとすれば、愚かな有権者は報いを受ける、ということなのかもしれない。

【2184冊目】佐藤究『QJKJQ』

 

QJKJQ

QJKJQ

 

 

「家族全員が猟奇殺人者」という設定で「うげっ」と思った人こそ、一読をおススメしたい。

いかにもな設定を次々と裏切り続けるプロットは、ネタバレなしの解説不能。適切な評をひとつ選ぶなら、やはり有栖川有栖の選評にある「平成のドグラ・マグラ」だろうか。同じく選評において辻村深月が「この作品を新しいとは思わない」と書いているのも、まったくそのとおり。

この著者が採用している「仕掛け」は、ある意味古典的ではあるものの、だからこそかえって「うまく使う」ことが難しい。せめてSFだったら設定次第で何とでもなるところだが、著者はそれを現代を舞台にしたミステリーという、もっとも難度の高い状況の中で鮮やかに使いこなしてみせた。いや、それだけではない。その上でこの作品をひとつの「小説」としてきっちり仕上げ、驚きどころかある種の感動さえ呼び起こすものにしてしまったのである。

ここ数年の江戸川乱歩賞の中でも、収穫となる一作だろう。だが、気になるのはこんな作品をいきなり出してしまって、この後をどうするのか、ということ。それでなくても、巻末の「乱歩賞受賞リスト」を見ればわかるように、賞を取ったもののその後は鳴かず飛ばず、という作家も少なくないのである。心配だ。

【2183冊目】森見登美彦『美女と竹林』

 

美女と竹林 (光文社文庫)

美女と竹林 (光文社文庫)

 

 
エッセイというか、メタエッセイというか。エッセイはふつう一人称だが、これは三人称。「森見登美彦氏」の日々を外から綴るというスタイルが飄逸だ。

竹林を刈るの刈らないの、憧れの本上まなみさんと会ったの会わないのと(一応これで「美女と竹林」になるということか)、書かれているのははっきりいってどうでもいい日常のダラダラ加減。まあ『四畳半王国』系のダラダラ学生モードが、社会人になってもずっと続いている感じだ。

読書に意義や意味を求める人はやめたほうがいいが、娯楽として本を読みたい人なら楽しめる。第三者視点からの冷めたツッコミが絶妙だ。仕事で疲れた日の帰りにパラパラ読んで、よい息抜きになりました。

【2182冊目】マックス・ヴェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』

プロテスタンティズムの世俗内的禁欲は、所有物の無頓着な享楽に全力をあげて反対し、消費を、とりわけ奢侈的な消費を圧殺した。その反面、この禁欲は心理的効果として財の獲得を伝統主義的倫理の障害から解き放った、利潤の追求を合法化したばかりでなく、それを(上述したような意味で)まさしく神の意志に添うものと考えて、そうした伝統主義的な桎梏を破砕してしまったのだ(マックス・ヴェーバープロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』 p.342)

 

 

プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (岩波文庫)

プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (岩波文庫)

 

 
経済を上向かせるには、消費を増やすべし。そんな経済の「常識」をまるごと裏返し、「禁欲こそが近代資本主義を育てた」ことを明らかにしたこの本は、マックス・ヴェーバーの代表作にして、社会学の古典中の古典である。

宗教改革によって生まれたプロテスタンティズム、中でもカルヴァンの唱えた徹底した禁欲思想が、なぜ資本主義を大きく進めたのか。その前提となるのが、そもそも財産は自分のものではなく、本来「神のもの」である、という発想だ。ここから2つの発想が生まれる。1つは、神のものである富を蓄えることは宗教倫理に反しない、したがって「儲ける」ことは正当化される。もう1つは、そのようにして貯めた財産を、自分の贅沢のために使ってはならないというものだ。

この2つが行きつくところは、膨大な財産的蓄積だ。そりゃそうである。勤勉に働いてせっせとお金を貯め、貯まったお金は使わないのだから。ここにさらに「天職(Beruf)」という概念が加わる。職業とは神から与えられたものであり、その仕事に邁進することが神に貢献する道なのだ。ただし、これは決して「仕事をがんばれば救われる」というような考えではない。カルヴァンの教えでは、人が救われるかどうかは神のみぞ知ることで、しかも最初から決まっているというのだから。

救われるかどうかには関係なく、信仰の道に自らを捧げる。稼いだお金を好きに使えなくたって、がんばって働いてせっせと貯める。この、一見狂信的とも思える宗教的発想が、勤勉と蓄財を両立させ、近代資本主義のトリガーとなった。もっとも、だったらプロテスタント圏以外の国、例えば日本で同じような「勤勉と蓄財」が成り立った理由をどう考えるか、という疑問も湧いてくるが、それはともかく、近代資本主義が西洋において生まれたことの説明にはなっていると思われる。

説明が詳細にわたり、注釈も非常に多く(たぶん本文と同じくらいのボリューム)、本筋を外さないで読んでいくのは結構大変だった。だがそれだけに、著者の到達した結論には、いろいろ疑問はあるにせよ深く納得させられる一冊だ。