自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【2178冊目】デニス・ルへイン『夜に生きる』

「おれたちがサービスする客は(略)夜を訪ねる。だが、おれたちは夜を生きてる。客はおれたちの持ち物を借りる。つまり、うちの砂場で遊ぶわけだから、こっちはそのひと粒ひと粒から利益を得なきゃならない」(デニス・ルへイン『夜に生きる』p.37)

 

 

 

夜に生きる 〔ハヤカワ・ミステリ1869〕 (ハヤカワ・ポケット・ミステリ)

夜に生きる 〔ハヤカワ・ミステリ1869〕 (ハヤカワ・ポケット・ミステリ)

 

 
以前読んだ『運命の日』の主人公ダニーの弟、ジョーが主人公のノワール・ミステリがこの『夜に生きる』だ。同じ警察幹部の息子でも、ダニーが正しいと信じる道を進んだのに対して、ジョーはなんと裏社会でギャングとしてのしあがろうとする。

一瞬も油断のできない、禁酒法時代のアメリカのアンダーワールド。刑務所に入り、船を爆破し、敵対するギャングと闘い、裏切り、裏切られ・・・・・・。何が起きてもおかしくない時代とはいっても、次から次へとやってくる予想外の展開は、文字通り読むのがやめられなくなる。

そして、「夜に生きる」道を選び、表社会のルールから離れて生きるがゆえの絶望と悲哀が、読むほどに胸を打つ。たぶん、表の社会で「まっとうに」暮らした方が、ジョーにとっては楽だったに違いない。だがそれでも、やはり夜の社会に殉ずるのが、おそらくはジョーにとっての矜持であって、「悪」の美学なのである。

 

 

【2177冊目】阿部謹也『自分のなかに歴史をよむ』

「これまでの歴史の書物では、事件の流れを追えば、一応歴史は理解されたと考えられていたように思われます。けれども私はただ事件の流れを追うだけでなく、理解し、解りたいと考えているのです。解るということは自分の奥底で納得するということですから、最終的には歴史の諸事象の奥底にあり、自分の内面と呼応する関係、あるいはその変化を発見したときに、理解できたことになるのです」(阿部謹也『自分のなかに歴史をよむ』(ちくま文庫 2007) p.131)

 

 

自分のなかに歴史をよむ (ちくま文庫)

自分のなかに歴史をよむ (ちくま文庫)

 

 
この本のタイトルは「自分のなかに歴史をよむ」。歴史を自分の外側にあるものではなく、自分と呼応しているものだと考える。しかも「歴史のなかの自分」ではなく「自分のなかの歴史」というのが、キモだ。

歴史に親しみたければ、いきなり教科書を読むのではなく、まずは「自分」から始めるのが良い。本書でも提案されている、そのためのおススメの方法は、日常に潜む歴史をさぐってみることだ。例えば、毎年「お正月」を祝っていても、その由来を知っていますか? ひな祭りはどうでしょうか。クリスマスは? キリストの誕生日? でも、クリスマスが「冬至」に近いのは、何か理由があるのではないでしょうか。

言葉の由来を探るのも面白い。地域の歴史でもいいし、サッカーが好きならサッカーの歴史、料理が好きなら料理の歴史を辿るのも一興だ。そして、夢中になって調べているうちに、中世ヨーロッパや古代の日本にいる自分に気づくことだろう。「自分」と「世界」は地続きなのである。


本書は阿部謹也の入門書だ。中高生向けとのことで非常にわかりやすいし、著者自身の半生に加え、ハーメルンの笛吹きから中世の差別問題まで、阿部歴史学のエッセンスが詰まっている。そしてなんといっても、著者自身がどのように「自分のなかに歴史を」読んできたかがよくわかる。おススメだ。

『論語』の寂莫

「子、川の上(ほとり)に在りて曰わく、逝く者は斯くの如きか。昼夜を舎(や)めず(孔子)」
≪訳≫先生が川のほとりでいわれた。「すぎゆくものはこの(流れの)ようであろうか。昼も夜も休まない」

 

論語 (岩波文庫 青202-1)

論語 (岩波文庫 青202-1)

 

 


論語』の中でも、どこか無常感が感じられて気に入っている一文だ。『論語』は説教臭いとして煙たがられることが多いが、これは学校での教え方にも問題があるのではなかろうか。パラパラめくっていると、お堅いものばかりではなく、意外にいろんなフレーズが出てきて、孔子という人物の多面性を感じることができる。上のフレーズなんて、まるっきり『方丈記』のイントロである。

だが、孔子が「無常」を感じるほどに達観していたか、どうか。むしろ自らのもとを去っていく人々を詠嘆する寂しさのようなものが、しんみりと感じられる。それが中国の雄大な河川に重ねられているのである。常なるものはなく、万物は常に流転する。だからこそ孔子は、そこに確かなるものを求め、それを古代の周王の時代に追憶したのかもしれない。

【2176冊目】アンドレア・ウルフ『フンボルトの冒険』

「自然は「生命の網」であり、地球規模の力なのだとフンボルトは気づいた。ある研究仲間がのちに述べたところによると、フンボルトはすべてが「千本の糸」でつながっていると理解したはじめての人だった。この新しい自然観が、こののち人びとが世界を見る目を変えることになる」(アンドレア・ウルフ『フンボルトの冒険』(NHK出版 2017) p.136-137)

 

 

フンボルトの冒険―自然という<生命の網>の発明

フンボルトの冒険―自然という<生命の網>の発明

 

 

この本、すっごく面白かった。フンボルトなんてほとんど知らなかったが、こんな途方もない人物だとは。

アレクサンダー・フォン・フンボルト。ナポレオンの同時代人であり、当時「世界でナポレオンに次ぐ有名人」と言われ、ゲーテは「フンボルトと数日ともに過ごすのは「数年生きる」のと変わらない」と言った。ダーウィンはビーグル号にフンボルトの著作集を持ち込んで愛読した。ソローの『森の生活』も、フンボルトの存在がなければ生まれなかっただろう。トーマス・ジェファーソンシモン・ボリバルフンボルトと親交を結び、一目も二目もおいていた。


環境保護を世界で最初に訴えたのも、おそらくフンボルトだ。自然とは個々の要素ではなくそのつながりで捉え、因果の連鎖のうちに成り立つ「生命の網」であると考え、その一部を人間が考え無しに破壊することが、自然環境全体をどれほど損なうかと力説した。大陸移動説やプレートテクトニクスも、さらには進化論さえも、その萌芽となるような発想はフンボルトがすでにもたらしていた。奴隷制やアメリカの先住民政策に強く反対し、「すべての人間は自由に生きるようにデザインされている」と述べたのもフンボルトだった。

だが、本書の面白さは、なんといってもフンボルトのフィールドワーク、より正確に言えば「探検」にある。ラテンアメリカアングロアメリカ、そしてロシア。インドに行くこと、ヒマラヤ山脈に登ることを切望していた。南米ではアンデスの高峰で雪に埋もれかけ、火山の噴火を見に行けず本気で悔しがり、ロシアでは事前の命令に背いてアルタイ山脈を越え、中国やモンゴルまで行ってしまうのだ(日本にフンボルトが来なかったことが惜しまれる)。

このクレイジーなまでの危険を顧みない研究熱心さ、誰かに似ていると思ったら、ヤマザキマリの漫画で読んだ「プリニウス」だった。火山好きなところも、博識でしゃべり出すと止まらないところも、言いたいことを言うわりに妙に憎めないところも、そういえばそっくりだ。違うのは、プリニウス博物学の黎明期における巨人であるのに対して、フンボルトは学問が専門化、細分化、タコツボ化されつつある時代における、おそらくは「最後の博物学者」である、ということだろう(強いて言えば、その後継者は荒俣宏か)。それが同時に最初のエコロジストであった、というのが面白い。

それにしてもこの著者、よくぞこんなに生き生きと、こんなに細部にわたってフンボルトという希代の人物を掘り出し、描き出したものだ。すばらしいノンフィクションだった。

 

 

森の生活 (講談社学術文庫)

森の生活 (講談社学術文庫)

 

 

プリニウス (1) (バンチコミックス45プレミアム)

プリニウス (1) (バンチコミックス45プレミアム)

 

 

 

狩野博幸『もっと知りたい河鍋暁斎』

「少なくとも、江戸から明治を生きた画家のなかで、暁斎ほど筆の力を持った者はひとりもいない」(狩野博幸『もっと知りたい河鍋暁斎』p.88)

 

 

 
月曜日、久々に休みが取れたので(と言っても日曜出勤の代休だが)、渋谷のBunkamura ザ・ミュージアムで開催中の「河鍋暁斎展」に行ってきた。

 

www.bunkamura.co.jp

 


上野のティツィアーノ展とどちらにしようか迷ったのだが、暁斎の魅力には勝てなかった。開催直後なので混み具合が心配だったが、平日ということもあって、わりとゆったり鑑賞できた(むしろテレビやネットで取り上げられて、これから来場者数が増えるんじゃなかろうか。上野の若冲展の悪夢を思い出す)。

で、内容なのだが、とっても良かった。また行っても良いと思えるくらい。いやホント。

しょっぱな、鴉画がずらりと並んでいるのにまず驚いたが、同じような構図でも鴉の表情や細かい部分がちょっとずつ違っていて、どんなに観ていても飽きないのがさらに驚き。ユーモラスな動物画、おどろおどろしい幽霊画、めったに見られない暁斎春画までちゃんと展示してあって、展示点数も多からず少なからず。メリハリの利いた展示方法にも好感が持てる。


暁斎の絵は、なんといっても表情が素晴らしい。生きているよう、という表現は月並みだが、本当に、動物でも妖怪でも、顔を見ているうちにどんな性格のヤツなのかが想像できるのだ。身体の動きも含めて、擬人化の極致なのである。連想したのは、宮崎駿の映画(特に『千と千尋の神隠し』に出てくる神様たち)と、モーリス・センダックの絵本『かいじゅうたちのいるところ』。まあ、つまりはああいう感じなのだ。ただし、描かれたのは宮崎駿やセンダックよりずっと前、幕末から明治にかけての頃なのだけれど。

 

千と千尋の神隠し [DVD]
 

 

 

かいじゅうたちのいるところ

かいじゅうたちのいるところ

 

 

特に惹かれたのが妖怪たちのユーモラスな行進を描いた巨大な「百鬼夜行図屏風」。実はワタクシ、この絵を後から見たいというだけの理由で、めったに買わない図録を買ってしまったのだ。化け物たちの豊かな表情がなんとも魅力的で、忘れがたいのである。さらにミュージアムショップでこの「百鬼夜行図屏風」がデザインされたTシャツが売っていたのだが、こちらは色がイマイチで断念。黒かネイビー、ダークブラウンだったら買っていた。

(これは全体のごく一部)

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