自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【2094冊目】リサ・ランドール『ダークマターと恐竜絶滅』

 

ダークマターと恐竜絶滅―新理論で宇宙の謎に迫る

ダークマターと恐竜絶滅―新理論で宇宙の謎に迫る

 

 
恐竜絶滅の原因が彗星の落下であるという「定説」は知っていたが、それが「ダークマター」と関係しているというのが、本書のキモ。SFチックな仮説にも見えるが、なんとこれこそが宇宙論の最前線なのである。

ダークマターという「謎の物質」が、そもそもよくわからない。本書の解説によれば、宇宙のエネルギーのうち通常の物質(原子)が5%であるのに対して、ダークマターは26%。ちなみに残りの69%は、さらに得体の知れない「ダークエネルギー」であるという。ダークマターだけで、だいたい宇宙の総エネルギーの4分の1を占めていることになる。

次に、通常の物質は相互に作用しあっているが、ダークマターはどうか。著者によれば、ダークマターのうちごく一部は、重力以外の力を通じて相互作用するという(部分的な相互作用。なお、重力による相互作用は「通常の」ダークマターにもみられる)。そして、通常の物質の相互作用とダークマターの「部分的な相互作用」は、お互いに交わることがない。著者はこのことを「通常の物質がフェイスブックを通じて相互作用しているのに対し、部分的に相互作用するダークマターのモデルの荷電物質はグーグルプラスを通じて相互作用しているようなもの」と説明している。同じ世界に存在するが、関係の仕方がパラレル、ということだ。こういう説明の仕方が、この著者はほんとうにうまい。

とはいえ、先ほどちらっと書いたように、「重力による相互作用」は通常の物質とダークマターの間でもみられる。そして、この両者は銀河系の中ですっぽり重なり合っているというのである。具体的には、円盤の形をした「通常の物質」の銀河系の内側に、ダークマターの円盤が収まっているという。この「ダブルディスク・ダークマター」こそが、著者が提示する仮説の中核なのだ。

さらにこの「ディスク」と彗星落下の原因を、著者は大胆に重ね合わせていく。ここはあまり簡単にまとめられないところなので、ぜひ本書に直接あたってほしいと思う。宇宙論と恐竜絶滅という、一見関係なさそうな領域が、微妙ではあるが確かに重なり合っていることが見えてくるくだりである。

 

もっとも、両者は厳密には「関係なさそう」なのではなく、宇宙全体の話と地球上の話では、どだい話題の縮尺(スケール)が違い過ぎるのだ。こうした「縮尺の違う話」が交差することは、学問の分野ではなかなかないように思う。だが、そもそも「最も大きな縮尺」である宇宙論と「最も小さな縮尺」の素粒子物理学が密接な関係をもっているのだし、たまには縮尺を変えて世の中を見てみることも、世界の「見え方」を変えるためには有益なのではなかろうか。

ちなみに本書の第1部「宇宙ができあがるまで」と第2章「活発な太陽系」は、宇宙論と生命の歴史のそれぞれをまとめた解説として出色。最先端の議論に触れつつも、絶妙な例えを織り交ぜた無類の分かりやすさと面白さで、読者をぐいぐい引っ張っていく。第3章のダークマター論は最前線の宇宙論の部分で、さすがに少々難しかったが、読みごたえは十分。読んだからといって明日の仕事に役に立つというたぐいの本ではないが(当たり前だ)、私たちの来し方行く末を考える上で、山ほどの知的刺激を与えてくれる一冊だ。

【2093冊目】世阿弥『風姿花伝・三道』

 

風姿花伝・三道 現代語訳付き (角川ソフィア)

風姿花伝・三道 現代語訳付き (角川ソフィア)

 

 
読んでおいてこういうことを言うのも何だけれど、果たしてこの本は表に出るべきだったのだろうか。

秘伝なのだ。秘すれば花なり」であって、「一切の事、諸道芸において、その家々に秘事と申すは、秘するによりて大用あるがゆゑなり」なのである。観客には花ということを知らせずに演じてこそ、そこに花を感じ、心が震えるのだ。本書はあえて、そんな能舞台の裏側を、言葉によってえぐり出すように明らかにした一冊である。

では、本書は能楽に興味のない人にとっては縁なき書物なのかといえば、それがそうでもないのだ。芸能、あるいは芸術文化全般に通じる内容を、この本は持っている。しかもその、言葉になるかならないかのギリギリのところを、言葉に落とし込んでいるのがスゴイ。

例えば、能でもピアノでもコンテンポラリー・ダンスでも何でもいいけれど、若くしてデビューして「大型新人」「天才的才能」ともてはやされる10代や20代のアーティストがよくいる。メディアも持ち上げるし、コンサートを開けばいつも大入り満員となると、本人も調子に乗って名人気取り。だが、世阿弥はこれを「当座の花」にすぎないとして戒める。それは物珍しさに手助けされたその場限りの魅力にすぎず、「まことの花にはあらず」と言い切るのである。

「たとひ、人も褒め、名人などに勝つとも、これは一旦めづらしき花なりと思ひ悟りて、いよいよ物まねをも直にし定め、名を得たらん人に事を細かに問ひて、稽古をいや増しにすべし。されば、時分の花をまことの花と知る心が、真実の花になほ遠ざかる心なり。ただ、人ごとに、この時分の花に迷ひて、やがて花の失するをも知らず。初心と申すはこの頃の事なり」

 


要するに、若くしてもてはやされたとしても調子に乗るな、ということなのだが、ここでいう「初心」が、後の「初心忘れるべからず」にもつながってくる。この有名なことわざが世阿弥に由来するのは有名な話だが(本書にも出てくるが、主に扱われているのは『花鏡』)、その本来の意味は、未熟にも関わらず調子に乗るような若い頃の驕慢を忘れるな、ということなのだ(実際はこのほか「時々の初心」「老後の初心」も含めての「初心忘れるべからず」なのだが、説明が長くなるので省略する)。

他にも印象に残るフレーズが本書は目白押しなのだが、もうひとつ汎用性が高そうなものを挙げれば「上手は下手の手本、下手は上手の手本」だろうか。意味は読んでのとおりだが、これもまた、驕慢を戒める言葉であろう。常に謙虚さを忘れず、どんな人からも学びを得る。これは芸道だけでなく、仕事や学業、さらには人生そのものの真理ではなかろうか。

【2092冊目】平野啓一郎『マチネの終わりに』

 

マチネの終わりに

マチネの終わりに

 

 

直球の恋愛小説。「芥川賞作家」「純文学」のイメージが強いだけに、こんな小説も書けるのか、と驚いた。

直球だが、安易ではない。恋愛を軸にしながらも、天才ギタリストの蒔野、ジャーナリストの洋子、それぞれの人生の厚みもしっかり描かれている。二人の存在感が際立っているからこそ、その二人が交わす愛もまた、圧倒的な充実を感じられる。

特に、イラクで取材にあたり間一髪で爆弾テロを逃れ、PTSDになってしまう洋子の存在は格別だ。こんな女性がいたら、と本気で思わされた。蒔野もかなりカッコいいが、洋子に比べるといささか見劣りする。経済的にも精神的にも、しっかりと自立した女性である洋子だが、それゆえに結婚がうまくいかず、蒔野も(やむを得ない事情があったにせよ)ほかの女性と結婚されてしまうのは、皮肉というべきなのかどうなのか。

読み終わって考えさせられたのは、蒔野と洋子のすれ違いの原因をつくった三谷という女性のこと。自分がこんなことをされたら絶対に許せないと思ってしまうが、その一方で、三谷の「弱さ」がなんともせつない。そしてまた、その行いを許せないと思ってしまう私自身も、やはり「弱い」人間なのだろう。私が洋子を理想と感じるのは、その「自立した強さ」を、自分にないものとして憧れているだけなのかもしれない。

【2091冊目】オリヴィエ・クリスタン『宗教改革』

 

宗教改革―ルター、カルヴァンとプロテスタントたち (「知の再発見」双書)

宗教改革―ルター、カルヴァンとプロテスタントたち (「知の再発見」双書)

 

 
第1に、宗教改革は「個人」の確立に寄与した。カトリックにおいては、共同体と信仰が一体のものとして結びつき、日々の習慣や社会のルールにも教会の影響が及んでいた。信仰はあくまで教会を通して行うものだったのだ。かたやプロテスタントでは、「聖書」が流通し、個人が聖書を通じて直接神に至る、という信仰の流れができた。これによって、信仰が「個人で行うもの」になった。

第2に、聖書の流通には、印刷技術が大きく関与した。グーテンベルクの技術がなければ、ルターがドイツ語訳聖書を広めようとしても、なかなか流通しなかっただろう。そもそもグーテンベルク自身、ラテン語の「グーテンベルク聖書」を作ったのだが、圧倒的に普及したきっかけは、やはりルターにあった。印刷技術が宗教改革を可能としたのみならず、宗教改革が印刷技術を広めたという面もあるのだろう。

第3に、宗教改革そのものというより、宗教改革への反発が、さまざまな芸術を開花させた。特にバロック絵画やバロック彫刻の発展は、宗教改革へのカトリック勢力の反撃でもあった。カラヴァッジョもベルニーニも、カトリック勢力の本拠地であるイタリアですばらしい作品を多く作ったのだ。その背景には、ルターたちが聖書そのものを介してキリストの教えを世に広めたのに対して、カトリック勢力はそれ以外の、図像や建築、彫刻を通して聖書の内容を伝えようとした、ということがあった。ちなみにプロテスタント側の芸術的な収穫はいささか乏しいが、ルターは音楽を重視し、自らも讃美歌を作曲したらしい。

第4に、これも宗教改革の反動で、イエズス会の海外布教が盛んになった。日本にキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルイエズス会、つまりはカトリック側の人間である。これによってインド、東南アジア、東アジアにまで布教の手が伸び、宣教師がアジアの地に降り立った。結果から見れば、これがヨーロッパ文化をアジアに伝えるとともに、後の交易や植民地支配の先鞭ともなった。

第5に、今度はプロテスタントの側であるピューリタンが、アメリカ大陸に渡りアメリカ合衆国の礎を築いた。南米を支配したスペインやポルトガルカトリックだが、北アメリカに入植したのは宗教的な使命感に燃える人々だったのだ。このことが、南米とは全く違う北米の歴史を形成した。アングロ・アメリカの社会や政治のありようは、ピューリタンを除いて語ることはできない。

第6に、宗教改革はヨーロッパを分断し、民族意識を萌芽させた。特にドイツでは、ルターがドイツ語訳聖書を広めたことから「いかなる国家への帰属からも生まれ得なかったドイツ民族意識の形成」が起きたという。当時のドイツは、名目上は神聖ローマ帝国としてカトリックの支配下にあったが、実際上は有力な諸侯が割拠する状態にあり、民族意識のようなカタチでのまとまりは見られなかった。そこに結束点として登場したのがルターだったのだ。また、こうした状況だったからこそ、ルターを庇護する領主も出現したといえよう。

第7に、こちらは民族意識とは逆に、国を超えた強固な連帯意識が生まれた。こちらは主にカルヴァン派によって、国際的なネットワークが形成されたことによる。その影響範囲は「東はトランシルヴァニアから西はスコットランド」に及んだという。

第8に、これはマックス・ウェーバーの有名な著作があるとおり、プロテスタンティズムこそが資本主義を準備した、と言われている。もっとも、これについては本書ではまったく触れられていない。

第9に、ヨーロッパ人同士、しかも同じ国の人々同士が殺しあうきっかけを作ったのも宗教改革だった。カトリックプロテスタント双方によって、とんでもない規模の迫害と虐殺が引き起こされた。偶像破壊の名のもとに破壊された芸術品も数多い。その衝撃度は、虐殺の光景を描いた多くの絵が残っていることからもうかがえる。

【2090冊目】本田美和子、イヴ・ジネスト、ロゼット・マレスコッティ『ユマニチュード入門』

 

ユマニチュード入門

ユマニチュード入門

 

 
ユマニチュードとは「人間らしさを大事にしたケア」のこと。ケアを行う人は「人間のための獣医」になってはならない、と著者は言う。ユマニチュードは「人間中心のケア」ですら、ない。中心にあるのは「わたしとその人との絆」なのだ。

人間には、生き物として生まれる「第一の誕生」と、人間として認められる「第二の誕生」があるという。だが、寝たきりになり、施設や病院に入り、入浴も排泄も食事も、すべてが「ケア」として行われるようになると、いつしか人がモノのように扱われ、「ケア」を時間内に行うことが最優先になってしまうことがある。それでは、その人は「人間扱いされている」とは言えない。

ユマニチュードは、こうした状況に置かれた人々に対して「第三の誕生」をもたらす方法である。ケアを行う人とケアを受ける人の間に絆を結びなおし、人が人としてケアを受けることができるようになる。そのための方法をイラスト入りでわかりやすく解説したのが本書である。

ユマニチュードを構成するステップは「見る」「話す」「触れる」「立つ」の4つ。これらを徹底的にケアの過程に組み込んでいく。例えば「見る」。ケアの現場の方は「見ないでケアなんてするわけがない」と言われるかもしれない。だが、本当に私たちは相手のことを「見て」いるだろうか? 例えば、壁の方を向いてベッドに寝ている人と目を合わせるために、ベッドを動かして隙間に入り込む、というところまでやっているだろうか? ユマニチュードは、そこまでやるのである。

「話す」も、決して通り一遍ではない。ケアの間じゅう、常に話しかけるのだ。2人でケアを行うのなら、一人が無言で動作に専念し、もう一人が常に話し続ける。いわばケアを「実況中継」するように。相手が無言だろうが関係ない。見ないこと、話さないことは「その人が存在していない」というメッセージなのだから。「触れる」「立つ」も同じで、おそらく普段のケアの場面で想像するものとはだいぶ違っているのではないかと思う。特に「立つ」ことの重要性は何度も強調されている。

私自身はケアの現場にいる人間ではないので、実際にここで書かれていることが現場レベルでどの程度納得されるもので、どの程度意外なものなのか、見当がつかないというのが正直なところである。だが、本書に書かれていることが単にケアの現場だけではなく、人と人が関わるすべての「現場」で大事になってくる、ということはよくわかる。認知症とか自閉症とか、そういう「症状」ではなく、まずは人間を見て、関係を結ぶこと。そこからしか、人と人とが関わる現場は始まらないのである。